思い切りと度胸――夏目漱石『坊っちゃん』(1907年)

 

坊っちゃん (新潮文庫)

坊っちゃん (新潮文庫)

 

 

 実に久しぶりに『坊ちやん』を読み返した。辛気くさい後期の漱石作品とは異なり十分楽しく読むことができる。それにしても、長い時間を隔てているというのに、どこかで会ったおぼえのある人物に出くわしたような困惑とよそよそしさが感じられない。

 

 思えば、それも当然のことかもしれない。新しい環境に入り、新しい人間関係のなかで生じるよそ者に対する反発(生徒たちのいたずら)、同僚の間での共感(山嵐)と反目(赤シャツやのだいこ)、淡い憧憬の対象である異性(マドンナ)といった設定は、学校を舞台にしたドラマのみならず、あらゆる場所で巧みにあるいは稚拙に繰り返されており、我々はものごころついてから先、『坊ちやん』の無数のヴァリエーションを読み、そして見聞きしているはずなのである。

 

 それでも、『坊ちゃん』にはそうした数限りないヴァリエーションとは大きく異なる点が認められる。それは、主人公である坊ちゃん、つまり外部からやってきた闖入者が、騒動こそ巻きおこすものの、なんの解決も、環境の変化ももたらさないことで、それが凡百の類似品と『坊ちやん』とを分け隔てている。

 

 ちょうど『吾輩は猫である』の苦沙弥先生の神経質な怒りが、怒りの対象である人間にはなんの効力も発揮しないように、坊ちゃんの行動力は別に坊ちゃんに降りかかる問題を解決するわけではない。坊ちゃんを小馬鹿にした態度を示す生徒たちとの間にいつのまにか師弟愛のようなものが生じるわけでもないし、山嵐と一緒になってぽかぽか殴りつけたとしても、赤シャツが前非を悔いるわけでもないだろう。また、陰険なはかりごとがまかり通る学校の体制が変化するわけでもない。

 

 なにより、そうした改善の努力をするまでもなく、坊ちゃんは東京に帰ってしまうのである。この間の事情を説明するのが、自分は思い切りはいいが度胸はない、という坊ちゃん自身の述懐である。

 

 彼によれば、いたずらをした証拠がないのをいいことに言い逃れをする生徒たちや許嫁のいるマドンナを横取りしようとする赤シャツには度胸がある。つまり、度胸とは結果を見越してそれをもとに自分から行動に踏み切ることであって、それゆえに下品である。

 

 思い切りというのは友だちに言われた通り二階から飛び降りたり、ナイフで指を切りつけたりすることにある。つまり、外からのあるきっかけをもとに後先考えずに行動に突っ込んでいくことにある。

 

 どうやら坊ちゃんにとって、行動というのはすべからく着地点のわからない跳躍のようなものであるべきなのである。であるから、生徒が恭順になったり、赤シャツが改心したりする面倒な結果があらわれる前にさっさと東京に戻ってしまうことは坊ちゃんの行動原理にかなっている。

 

 つまり、『坊ちやん』とは、思い切りもあるが度胸もそこそこ備えている山嵐、思い切りはないが度胸がある赤シャツ、思い切りも度胸もないうらなりといった人物のなかを、東京で跳躍に踏み切った度胸はないが思い切りはある坊ちゃんが飛びすぎてゆき、やがて再び東京に着地するという話である。

 

おれは卑怯な人間ではない、臆病な男でもないが、惜しい事に胆力が欠けて居る。