見知らぬ女の肖像ーーヘンリー・ジェイムズ『ある婦人の肖像』

 

ある婦人の肖像 (上) (岩波文庫)

ある婦人の肖像 (上) (岩波文庫)

 

 

 

ある婦人の肖像 (中) (岩波文庫)

ある婦人の肖像 (中) (岩波文庫)

 

 

 

ある婦人の肖像 (下) (岩波文庫)

ある婦人の肖像 (下) (岩波文庫)

 

  私が読んだのは国書刊行会の一冊本だが、いかに記す理由などによって、文庫のほうが読みやすいでしょう。訳者も同じく行方昭夫です。

 

 大昔に『ねじの廻転』を読んで興奮したが、それ以降ヘンリー・ジェイムズにさほど縁がなかったのは、それほどしっかりと日本で紹介されたことがないためで、考えてみれば不思議なことだが、怪奇小説の関連で『ねじの廻転』に触れられることはあっても、私が好きな作家たちが書いたもののなかで、ヘンリー・ジェイムズについて書かれたのを読んだことがない。
 
 私が読んできた人たちが圧倒的にフランス文学畑の人が多かったこと、そうした人たちはおおむね私の親世代よりも上だったわけだが、シュルレアリスムの洗礼を受けたり、より前の世代であれば、ボードレールランボーに啓示を受けたり、アポリネールリラダンにさかのぼったり、ジッドとともにドストエフスキーに傾倒すること、より新しいヌーヴォー・ロマンの作家たちとともにカフカを評価することはあっても、あるいはまた、日夏耿之介矢野峰人のような世紀末趣味を前面に押し出した人たちはともかく、福原麟太郎中野好夫などの英文学者、ヘンリー・ジェイムズを英国文学の大いなる伝統のなかに位置づけたニュー・クリティズムを中心的に扱っている(当然のことながら批判的にだが)『英国の近代文学』のような著書を初期においてあらわした吉田健一にしても、その数多い文章のなかで、ヘンリー・ジェイムズに触れた箇所を思いだすことができないのである。
 
 にもかかわらず、短編集しか読んでいないにもかかわらず、なぜか私はヘンリー・ジェイムズへの関心をとぎらせることはなく、各種の文学全集で一冊くらいは当てられているものは買っていった。1980年代には国書刊行会から全8巻の作品集が出たのだが、それまでに買った全集の端本などで『ボストンの人々』などは途中まで読んではいたものの、なぜか途中で読むのを中断してしまい、相変わらず私にとってのヘンリー・ジェイムズは『ねじの廻転』のジェイムズから一歩も出ていない状態であってみれば、豪華な作品集を買うまでにはいたらず、ヘンリーよりも兄である心理学者でもあれば哲学者でもあるウィリアムにより親しい状態が続いていたのだが、2010年も過ぎ、古本が止めどなく値崩れしていくなかで、安定した不人気を誇るジェイムズの作品集のさほど状態のよくない揃いをようやく手に入れることができた。
 
 そして『ある婦人の肖像』を読み始めたのだが、読み終わるのに三年かかってしまった。とはいっても一日に一ページずつ読んでいたわけではなく、第一に私の昔からの読書法で、もはや直すに直せないのだが、何十冊平行して読んでいようがまったく平気なことがあって、読んでいるときにはつまらないことはなかったのだが、ほかに読む本ができて中断することが何度かあり、第ニにはこれもまた私のだらしない習慣のせいで、寝っ転がって本を読むことが多いのだが、大冊で700ページを超える本を支えていることができないために、机を使わなければならず、キーボードや小物でただでさえ散らかっている机をまずはかたづけなければならないことが億劫だったのである。
 
 しかしながら、三分の一を越えたあたりからは俄然面白くなり、ほとんど一気に読み上げた(でも、寝るときには違う本を読んでいたが)。
 
 ジェイムズの創作活動はほぼ三つの時期に分けられており、『ある婦人の肖像』は「国際状況」を描いた第一期の代表作だといわれている。「国際状況」というのはより簡単にいってしまえば、映画でいうところの『巴里のアメリカ人』であり、つまりはヨーロッパにおけるアメリカ人ということになる。
 
 アメリカの娘イザベル・アーチャーはイギリスで上流に属し、銀行を経営している男性と結婚した伯母の屋敷に滞在している。そこには聡明ではあるが肺病を患っている従兄弟も同居している。彼女はアメリカでも求婚者をもっていたが、イギリスでの上流階級とのつきあいのなかで、ウォーバトン卿という貴族にも求婚されるが断ってしまう。彼は開明的な貴族であり、縁談を断ったことに周囲も驚きを隠せない。
 
 このあたりまで読んだとき、私はてっきりこれはオースティンの『高慢と偏見』にアメリカの娘が迷い込む話であり、紆余曲折があった後に、二人が結ばれる話なのだと思った。
 
 実は、国書刊行会の作品集には各巻の冒頭に小説家である中村真一郎の序文が置かれてあり、そこにはあとで読んでみると話の筋がほぼ書かれているのだが、三年前に読んだこの文章のことなどすっかり忘れていたのである。
 
 「肖像」というのは実に見事な題名であり、モナリザが端的に示しているように、精緻に描かれれば描かれるほど、対象であるはずのその人物は謎に包まれていく。物語が動き始めるのは、全体の三分の二を超えたあたり、つまり750ページほどある本の400ページを超えたあたりからであり、そこまではいわばイザベルという主人公をめぐる日常が丹念に描かれていき、その礼儀正しく、自立心に富んでいて、聡明でいて繊細な感情に恵まれている様は見て取れるのだが、恋愛に必須なものであるその真の魅力については巧妙に避けられているように感じる。
 
 その魅力のために、ウォーバトン卿は求婚し、従兄弟であるラルフは、死を眼前にした父親に頼み込んで、自分が相続する遺産を裂いて、イザベルが一生生活に困らないだけの遺産を残してくれるように頼み込むのだが、読者である私にはまさしく肖像画のように、かろうじて気韻として伝えられるだけなのである。
 
 いわば肖像として動くことを拒否していたかのようなイザベルが、はじめて積極的に行動し、物語が動きだすのが、三分の二を超えたあたり、イタリアに住むオズモンドという男と恋に落ちることだった。彼は知的で芸術について詳しく、魅力的な男性なのだが、彼女の周囲の人物は二人が結婚することについてはみな反対する。全五十五章あるこの小説の三十五章と三十六章のあいだは時間が飛んでおり、その間にイザベルは皆の反対を押し切ってオズモンドと結婚し、最初の子供を流産で亡くしている。
 
 揺るぐことがなかった彼女の幸福感に満ちた生が消え失せ、夫であるオズモンドとの関係もすでに冷ややかなものとなっていることが示される。高雅であると感じられたオズモンドは、実は彼女の財産を当てに結婚した俗物であることが間接的に書かれるのだが、なによりも世間の目が気になるために、世間に対して超然とした姿勢を崩さない俗物なるものを、単に俗物として退けられるだろうか。夫婦間が冷え切っているからと行ってオズモンドは暴力的になるわけでもなければ、冷淡さを露骨に見せるわけでもなく、描かれている対応をみれば結婚以前の姿と変わらない。悪役とはかたづけられない謎めいた人物なのである。
 
 イザベルは従兄弟のラルフの死を看取り、身一つであればアメリカに帰ることも、その他無数の選択があるなかで、イタリアにいるすでに愛情のない夫の元に戻っていく。
 
 つまり、イザベルが真に行動したのは、小説においては飛ばされている三十五章と三十六章とのあいだ、結婚し、子供を失い、夫への愛情をなくすことにおいてであり、小説の現場においては一切が謎であり、肖像として、つまりはその人物を現に知っている人間に対しては思い出の糸口として尽きることを知らない種となる顔が、その人物の実際を知らない人間にとっては、魅力的な顔であればあるほど、同時に謎めいたものになるという仕掛けを小説において圧倒的な筆力をもってしあげるとどうなるかという好例がここにある。