性器の笑い――立川談志『金玉医者』

 

  藪医者をテーマにした小咄のたぐいは多いが、この医者は藪なのだろうか、それとも名医なのだろうか。ある家の娘が原因のわからない病気になってしまう。特に外科的、内科的に問題がないようなので、おそらくは気鬱が原因ででもあるのだろうが、何人の医者に診せてもよくならない。


 出入りの者が、正式な医者ではないが、身内の奇病を治した人物がいる、と紹介してきた。お助け様や田舎仏とも呼ばれているらしいが、まじないや宗教でどうこうするたぐいでもないらしい。駄目でもともとだと、成功したら十両をお礼する約束で見てもらうことにした。

 

 やってきた人物は、ホイホイハイハイと歌うようにつぶやきながら、軽口を叩いているばかりで医者の威厳とはまったく無縁な様子だった。普通の医者のように、脈をとるために手を取りもせず、患者にはまったく触れないで直すという。それでも心配で、障子越しに様子をうかがっていると、世の中は広大でとか、孝行や愛がどうしたとか、人生いかに生きるべきかなどを語る先生の声だけが聞こえてくる。


 この先生は、出てくると、まあ治るでしょう、と請けあった。五日ごとにきて、五回にもなろう頃には娘は起き上がって食事をとり、三味線を弾けるまでに回復した。しかし、父親はいったいどうして治ったのか不思議でならない。我慢ができなくなって、さらに金を包んで、医者の家を訪れて問いただす。

 

 すると、先生が言うには、世の中や愛や慈しみなどと語っているときの自分の格好は、裾を割って立て膝をつき、緩めたふんどしからぶらぶら揺れる金玉が見えるようなものだったという。一方で愛や慈しみなどといったまじめな問題を語っていながら、他方では金玉がぶらぶらしているばかばかしさに娘は思わず笑ってしまい、笑えばしめたもの、笑いというのは生きる気力のようなものだから、それから快方に向かったのだと先生は語る。聞かされた方は、そんなことでと癪にさわるが、しかたがない。


 ところが、梅雨時になるとまた娘の病気がぶり返した。また、先生を呼ぼうかということになるが、父親は、やり方はわかっている、自分で十分だと娘の部屋に行き、前をまくってみせるが、娘は叫び声を上げて目を回してしまう。驚いて先生のところに行き、訳を尋ねると、残らず見せた、それはいけない、薬が効きすぎた。


 金玉は、解剖学的に見れば、精子をつくるという重要な役目を果たす箇所には違いないが、見た目だけからいえば、おそらく臍と並んで人体でもっとも無意味な場所であろう。しかし、世の中や愛の重大さと金玉の無意味さの対比が生む笑いというのは、相当に抽象化された、いってみれば知的な笑いである。

 

 というのも、金玉の湿り気を帯びた皺だらけの形状、その肉感性というどちらかといえばグロテスクな感触がこの噺では排除されているからである。また、娘の年齢は特定されていないが、気鬱であれば思春期の頃であろう、その年頃の娘が性的な生々しさを感じ取らないことも考えにくい。


 思い起こしてみると、小学校低学年の頃だろうか、大人の女性器を見てげらげら笑い転げた鮮明な記憶がある。その笑いはもちろん知的な笑いではなかった。これまでに見たことがない形の滑稽さといえばやや近い気がする。

 

 しかしむしろ、性的な好奇心や意識も充分にあったであろうその時期に、普段は隠されている場所が開き、中から出てきたのが、子供の私にとってはなんの連想ももたらさない妙な形状のものだっただけに、言葉や他のイメージに置き換えられないために開いた裂け目から、ほかに反応のしようがないので笑いという形をとらざるを得なかったのではないか。であるから、それは別に生きる気力とつながっているわけではなく、無意味な形状に反応した(その頃の私にとっては)無意味な笑いであって、気鬱の処方にはなりそうにない。