目から鱗が落ちる虚子論――仁平勝『虚子の読み方』
虚子についてはごく表面的な知識しかもっていない。だが、明治以降の俳人のなかでは好感をもっていて、「流れ行く大根の葉の早さかな」「ゆらぎ見ゆ百の椿が三百に」「川を見るバナナの皮は手より落ち」などは好きな句である。
とはいえ、これらも句集から直接見つけだしたものではない。なにしろ『五百句』や『六百句』などとあまりに素っ気ないので、各文学全集で個人の句集としては容易に手に入るものであるにもかかわらず、なかなか読み通すまでの根気がもてないのである。こんな半端な知識にもかかわらず、虚子が「客観写生」と「花鳥諷詠」を唱道し、それが現在に至るまで有季定型派として俳壇の主流になっているというごく一般的な見方に対してはなにか違和感を感じていた。というのも、虚子の言に従い「客観写生」と「花鳥諷詠」を守っているらしい俳句の多くが虚子よりも古めかしく、かつつまらなく思えたからである。
しかし今回、仁平氏の著作、特に「季題の方法」を読んで目から鱗が落ちたように感じた。俳句に季語が必要だという考え方はいまでも主流であり、虚子の教えに忠実であると思われている。その根拠としては、俳句は四季折々の風物を捉える詩であり、季節感を表現するためだと言われる。季語とは俳句のいわば焦点であり、言い方を変えれば季語をどのように形容するかに俳句の肝があることになる。
ところが、「季語とは季節感を表す言葉であるなどと考えていれば、虚子の俳句は理解できるはずがない」と仁平氏は言う。虚子の主張とは、季語と季節感を結びつけるようなものではまったくなく、季語とは俳句における形式的な約束のようなものであり、季語さえ入っていればなにを題材にしようが構わないというのが「花鳥諷詠の文学」の定義だというのだ。
季節感とは特に関係のない「都会美」だろうが「機械美」だろうが、そこに季語さえあれば俳句になる。それではなぜ季語が必要かというと、それによって「歴史的連想即ち空想的趣味」の普遍性に俳句が開かれることになる、というのが虚子の考え方だが、つまるところそれは虚子の趣味であり、反論しようのない趣味に虚子は「居直った」のだと仁平氏は論じている。
「花鳥諷詠」とは季節に敏感に反応することであり、季節感がどんどん失われているいまでは季語は用をなさなくなっている、などとひどく通俗的な見方しかもっていなかった私はこれを読んで仰天し、そういう事情ならばいっそ季語信奉者に宗旨変えしてもよいほどだと思った。それ以外にも、「客観写生」なるものが単に景色を叙しただけのものではなく、いかに精妙なレトリックの上に成り立っているか、また、子規と虚子の対照的な俳句観など、新鮮な切り口で面白く読ませてくれる本である。