秩序の狡知――立川談志『五貫裁き』

 

立川談志ひとり会 落語CD全集 第46集「五貫裁き」「芝浜」
 

  話は面白くなるぞ、と大家の五郎兵衛が言って訴えさせたとき、厳正で杓子定規な判決を期待したわけではないだろう。まさか大岡越前が裁いてくれるとまでは期待しなかったろうが、ごく軽微な町内の喧嘩が発端であるだけに、訴え方次第ではどうにでもなるという自由さが成算として働いていたに違いない。


 義に強く情にもろい大家の太郎兵衛は、食いつめた店子の八五郎が、八百屋を始めたいと泣きついてこられると、無下に断ることもできない。といって、自分自身も融通できる金はないので、奉加帳をもたせてやる。

 

 奉加帳とは一種の寄付金集めの回状のようなもので、できるだけ沢山貰えるところからまわるように教える。そこで八五郎が出向いていったのは、質屋の徳力屋である。爺さんの世代にちょっとした貸しがあることを聞いていたためだ。ところが、我利我利亡者で嫌われ者の徳力屋の番頭が出したのは三文、子供が駄菓子を買いに来たわけでもあるまいし、三文はあるまいとねじ込んでいると、出てきた主人が書き直して出したのはなんと一文、我慢がならなくなって金を投げつけ、飛びかかろうとするが、逆に煙管で打ち据えられてしまう。

 

 大家があおって奉行所に訴えさせる。ちょうど暇だったのだろう、裁くのは大岡越前。だが、案に相違して、御用金を粗略に扱ったとして八五郎に五貫の罰金が命じられた。しかし、貧しいことゆえ、日に一文ずつ徳力屋に渡し、奉行所への持参は徳力屋がすることとされた。

 

 大家と八五郎にとっては期待外れの判決だが、実行するとなるとやっかいなことが多いのに双方とも気づいた。八五郎は仕事もないものだから、朝晩いとわず一文をもってやってくる。徳力屋のほうは、奉行所に金を持参するのだから、名主五人組同道でなければならないというのだ。彼らに礼金を出すことを思うと、天文学的な数字になってしまう。結局、双方のあいだで示談が成立し、八五郎は百両を手に入れた。


 もともとこの噺は、講談がもとになっており、落語では『一文惜しみ』として知られている。一龍斉貞山に教わった立川談志が講談通りに『五貫裁き』として演じたから、ここでもそれに従う。映画、テレビから講談、落語に到るまで、大岡裁きを扱ったものには枚挙にいとまはないが、「一文惜しみの百両損」といった道徳をここで引き合いにだすまでもないだろう。

 

 そうであれば、最初からそのように裁けばいいだけのことになる。あえて川に落ちた三文を人足をかり集めて探させた青砥藤綱の例まで引き合いにだして裁いた大岡越前には金は流通させてこそ価値があるという秩序安定者の狡知が働いている。

 

 だからこそ徳力屋は慈善をすると感謝される快感を知って店を潰してしまい、八五郎はもちつけない金をもってどっかに行ってしまい、大家は死んじゃって、大岡様も死んじゃって、この噺を知るものは誰もいなくなり、ただ家元だけが知っている、と談志が付け加えた結末も納得がいくものとなる。つまり、ここで働いていたのは秩序の狡知であって、大岡越前もまた、それをより印象深く運用したに過ぎないのだ。