『水滸伝』と幸田露伴といくつかの版本と

 

 

 

 

 

水滸伝 上 (奇書シリーズ 3)

水滸伝 上 (奇書シリーズ 3)

 

 

 

 

 

世界文学全集 5 水滸伝

世界文学全集 5 水滸伝

 

 

 

 
 大正十二年から十三年にわたり、国民文庫刊行会から国訳漢文大成文学部の第十八巻・第十九巻・第二十巻の三巻本として、『国訳忠義水滸全書』が露伴の翻訳によって刊行された。塩谷賛によると、『紅楼夢』の翻訳も頼まれたが、そちらは断ったという。
 
 国民文庫では、各巻の巻末に原文も載せられていたが、岩波書店露伴全集では省かれている。総ルビで相当量の注がついている。原書の白話文をほぼ読み下すようにして訳しており、塩谷賛によれば、「捻じ伏せるようにして訳したのだ」(『幸田露伴』)と露伴は語っていたという。
 
 試みに、第二十三回にある有名な武松の虎殺しの場面(『露伴全集第三十四巻』)を、講談口調を取り入れ、最も砕けた調子で訳した吉川幸次郎・清水茂のものと比較してみよう。
 
 武松は、片足で虎の眉間、目の中めがけ、懸命に蹴り立てれば、虎はほえ立てつつ、体の下から、泥を二山かきあげて、穴を一つこしらえてしまいました。武松は虎の口を泥の穴の中へつっこみます。虎は武松にしてやられ、もうすっかり気合が抜けています。そこを武松、左手でしっかり頭の皮をひっつかみ、そっと右手を抜いて、鉄槌ほどもある拳骨をふりあげ、日頃の手並みにものいわせて、めったやたらになぐりつけました。五、六十ぺんもなぐるうちに、かの虎、目の中、口の中、鼻の中、耳の中から、どっと鮮血をほとばしらせます。まこと武松は、日頃の武勇の限りをつくし、胸中の武芸にものいわせて、あっという間に大虎をぐんなりと叩きのめして、錦の布袋をひろげたようにしてしまいました。
 
 一方、露伴の訳は次のようなものである。注は煩瑣なので略す。この短い文のなかに七個所あることを言えば足りるだろう。
 
武松隻脚を把つて大蟲面門上眼晴裏を望み只顧乱踢す。那の大蟲咆哮し起来す、身底下を把つて両堆の黄泥を爬起し、一箇の土坑を做了す。武松那の大蟲の嘴を把つて直に黄泥坑裏に按下し去る、那の大蟲武松に奈何し得られ、些の気力没し。武松左手を把つて緊々地に頂花皮を揪住し、右手を偸出し来り、鉄槌般の大小の拳頭を提起し、平生の力を尽し、只顧に打つ、打得て五七十拳、那の大蟲眼裏、口裏、鼻子裏、耳朶裏より都て鮮血を迸出し来る。武松平昔の神威を尽し、胸中の武芸仗り、半歇児にして大蟲を把つて打つて一堆と做す、却て一箇の錦布袋を攩着するに似たり。
 
 普通の漢文読み下し文とも異なり、到底読み通すことのできない佶屈した訳文だ。どうしてこのような「捻じ伏せるような」訳し方がなされたのだろうか。
 
 『水滸伝』が日本の講談にあたる「説話」、人形芝居である「傀儡」、紙芝居にあたる「影戯」といった中国の大衆芸能に深く関わり、それらによって肉づけされていったことは露伴自身その「解題」や『水滸伝』に関する文章で幾度も触れている。
 
 『保元物語』や『平治物語』を好んだ露伴が、そうした日本の語り物の伝統に則って翻訳することも十分考えられたはずである。推察するに、この『国訳漢文大成』が諸子百家から詩、小説にまで中国文学全体にわたる包括的なものであり、学問的な色合いが強いものであるため、中国における正統的な文学と白話文がいかに異なっているかを示すためにもこうした訳し方をしたのではないだろうか。
 
 『水滸伝』は大きく三つの版に分けられる。七十回本、百回本、百二十回本である。そのいずれもが翻訳されており、七十回本は佐藤一郎集英社の世界文学全集の2巻分)の、百回本は吉川幸次郎・清水茂(岩波書店の10冊本)の、百二十回本は駒田信二の訳(平凡社の中国古典文学大系の3巻分)がある。
 
 清水茂によれば(平凡社『世界大百科事典』)、最も古い百回本の物語は 「(1)宋江を首領とする 108 人の豪傑が,それぞれ事情を異にしながら,官吏や土豪に圧迫されて群盗の仲間入りをせざるを得なくなる。 (2) 勢ぞろいした豪傑たちが官軍と戦って勝ち,朝廷は懐柔策を取って招安する。 (3) 官軍に組みこまれた豪傑たちが,敵国遼と戦って勝つ。 (4) 江南で反乱を起こした方臘を征討して鎮圧するが (方臘の乱),豪傑たちは死傷などによって分散し,生還者は任官したものの,奸臣によって破滅させられる」の四つの部分に分かれる。
 
 百二十回本は、 (3)と(4)との間に更に田虎の討伐(九十一回から百回まで)、王慶の討伐(百一回から百十回まで)がはさまる。それ以外は、細かい異同はあるにしても、百回と異ならない。
 
 それらと根本的に異なっているのが七十回本である。七十回本は金聖嘆によって後半部分が切り捨てられ、(1)の部分だけが残される。百回、及び百二十回本で七十一回にあたる、百八人の豪傑が梁山泊に集結し、生死を共にすることを天に誓う場面と、副将である廬俊義の夢が新たに金聖嘆によって最終回につけ加えられた。
 
 その夢とは、自分が役人に捕えられ、それを救おうとして朝廷に帰順を申し出た百七人の仲間たちも同様に拘束され、皆一斉に首を斬られるというものだ。驚いて眼を覚ますと堂上に「天下太平」の額がかかっている、そんな思わせぶりとも言える終り方をしている。
 
 また、白話小説に特徴的な「但見」と呼ばれるものがあり、「英雄同士の闘争とか、美人の出現とか、高貴の人、神仙なんぞの出場」(「水滸伝各本」『露伴全集第十八巻』)などに、本文より一字下げて詩のように凝った文章で綴られる部分が削られるか、削ってしまうと前後の脈絡がわかりにくくなる場合には本文の中に組み込まれている。この金聖嘆による七十回本は、現代になってこそ批判も出ているが、登場以後三百年にわたって中国における主な版となった。
 
 佐藤一郎によれば(『水滸伝』解説)、金聖嘆は王陽明の流れをくむ陽明左派の思想家でもあり、人間の天然自然な本性を最重視した。それゆえ、『水滸伝』の豪傑たちの人物評価では、魯智深、武松、李逵といった直情径行な暴れ者たちは上の上の評価を得ており、こそ泥上がりの時遷や、術策を用いて人を欺したり、何かといえば忠義を持ちだす宋江は、総大将であるにもかかわらず下の下の評価を下している。
 
 こうした判断基準からすれば、朝廷に取り込まれ、朝廷のために戦いを重ねることで天然自然な本性の上に大義名分が覆い被さる後半部分はあらずもがなと言えるかもしれない。また実際、特に朝廷の命を受けての計四度にわたる戦いでは、修羅場の連続になり、個人の性格は後方に退いてしまっている。
 
 露伴が翻訳した当時、中国で最も一般的な版は金聖嘆の七十回本だった。露伴が翻訳したのは百二十回本で、金聖嘆については口を極めて非難している。
 
水滸伝は聖嘆の評のほかの本は、今は殆ど手に入れ難いほど稀有なものになつてゐて、李卓吾評と云伝へられたり、鐘伯敬評と云はれたりしている本は、寓目してゐる人も少い、隨つて水滸伝と云へば直に聖嘆の名を思ひ出すやうになつてゐて、聖嘆を水滸伝の忠僕の如く思つてゐる人も有り、又近頃の支那の人などは、何でも古に反対して新しいことを言ひたい心から、聖嘆を大批評家などと揚げてゐる者もある。しかしそれは飛んでも無い事で、聖嘆は水滸伝を腰斬にして、百二十回有つたものを七十回で打切つて、それを辻褄を好い程に合せて、これが古本である、普通の俗本は蛇足を添へたものだなぞと、勝手なことを云つたもので、本来の水滸伝から云へば、けしからぬ不埒なことをしたものである。忠僕どころでは無い、欺罔横暴、何とも云ひやうの無い不埒な奴である。又聖嘆の批評といふのは、如何にも微細に入つた批評のやうであるが、実は自分の勝手に本書の精神も情懐も何も関はずに、自分の言ひたい三昧をならべたもので、一向本来の意味合も気分も関はぬどころか却つて反対の方向へ無理やりに漕ぎつけたものである。もちろん原書を半分に截断して澄ましてゐる程に人を食つた男であるから、其位の事は何でも無いのである。であるから、聖嘆を良い批評家だと思つたり、聖嘆本で水滸伝を論じたりなんぞしてゐるのは、余りおめでたい談で、イヤハヤ情無いことであるのだ。けれども聖嘆は口も八丁手も八丁で、兎に角に世間のお坊ッちやん達を瞞着し得ただけの技倆は持合せてゐたのだから、感心な小僧には相違ない。聖嘆の遣り口は、他人の酒を飲み肴をあらして、そして自分の太平楽を喋り立てたのであるから、割の宜い仕事をしたのである。(「金聖嘆」『露伴全集第十五巻』)
 
 この批判は、金聖嘆が本来百二十回にまでなったものを七十回に「腰斬」にし、作品の歴史に対する尊重の念がないこと、また宋江を下の下と評するといったいかにも奇を衒った主張が『水滸伝』そのものとは関係ない自分の考えを述べる手段となっていることに不愉快を感じたこともあるのだろうが、百二十回本に七十回本よりも大きな積極的価値を認めていたことも大きいに違いない。
 
 『水滸伝』は、最後の最後、第百十九回、第二百回にいたって始めて、生き残った豪傑たちがそれ以外のなにものかに人間として変貌を遂げる。百回本だと第九十九回、第百回だが、ある意味単調な繰りかえしである二十回分の戦闘場面が加わっている分、百二十回本ではこの変貌がより印象深いものとなる。つまり、豪傑たちにある種のエピファニーが訪れるのである。
 
 例えば、最後の戦いで総大将である方臘を捕えた魯智深は、その功をもって還俗して官途に就くも、名山大刹の住持になることも可能だと勧める宋江に対し、「余計なものを求めたところで、それがなにになりましょう。ただ五体満足に往生することができさえすれば、それがなによりです」(駒田信二訳)と言って、その後静かに法堂のなかで死ぬ。
 
 また、燕青はかつての主人であり副大将でもある廬俊義のもとに行き、官職を退き、ひなびた静かな土地で共に暮らしませんかと誘いをかけるが、廬俊義の方は「辺境の地に辛酸をなめて、兄弟たちもそこなわれたが、幸にわれら一家はふたりとも事なきを得て、いまや錦をきて故郷へかえり、妻子にまでも余栄をおよぼそうとしているところなのに、おまえはどうしてまた、わざわざそんな実のない道を進もうというのだ」と言って、二人の価値観の違いが明らかになり、燕青はどこにともなく立ち去り、廬俊義は奸臣たちに毒を盛られて死ぬ。
 
 戴宗は道廟で「笑いながら大往生」を遂げ、柴進や李応は病気を口実に官職を退き、それぞれの故郷へと帰っていった。宋江は廬俊義同様、毒を盛られ、それに気づくのだが、従容としてそれを仰ぐ。あまつさえ、自分が毒殺されたと知ったなら、暴れ者の李逵が再び乱を起こすことを案じ、呼び寄せて毒酒を李逵にも飲ませる。毒を飲まされた李逵の方も、「よろしいとも、よろしいとも。生きていたときも兄貴にお仕えしていたのだから、死んでも兄貴の配下の亡霊になりましょう」と言ってそれを受け容れる。
 
 これによって、宋江の「忠義」が金聖嘆の評したように偽善的なものではなく、李逵に通じる愚直さのあらわれに他ならないことが明らかになる。宋江李逵とが夢に現われ、これまでの経緯を知らされた呉用花栄宋江の墓前に参じて二人並んで首をくくって死ぬ。
 
 こうして、侠気によって一つにまとまっていた豪傑たちが一挙に多様性をもって散り散りになる。「さあそこで読者の思ふところも又一様では無くなる。宋江に飽迄同情するものもある。燕青や、公孫勝や李俊の如きを智なりとする者もある、見解はさま/″\で従つて批評もさま/″\になるが、こゝまでに到らねば水滸伝の真骨頭真面目は見えぬわけである」(「水滸伝雑話」『露伴全集別巻下』)と露伴は言っている。様々な状況によって梁山泊に集まった多様な人物が、その性質を変え再びばらばらになるという結構は、百二十回本で始めて明らかになるもので、露伴が『水滸伝』に見て取った最大の魅力は、まさしくそうした多様性にあった。
 
 先づ梁山泊豪傑は一百八人とありますが、此の人々の顔触を見わたして、其の人となりを考へますと、一寸おもしろく出来てゐます。宋江は総頭領ですが、これは小吏の出身で、一向に大した材能も有りませんが、人の頭たるべき人の代表のやうに描かれて居ります。武術も少しは出来るので孔明孔亮二人には先生格で有りまするが、其孔明も孔亮もまことに弱いからして、武行者には撲り倒され、呼延灼には生擒にされたりします、宋江の弱さも推測されます。智恵はといふと余り智恵も無く、短見ですから、助けずとも宜い女を助けて、其為に自分も自分の友の花栄も困難したりなどします。併し宋江は謙虚にして人に下り、常に功を衆兄弟に帰して、飽まで自己を没して居り、兄弟に難儀があれば身を挺してこれを助け救はんとします。都べて自分のが勇を揮ひ智を逞しくするのは、槍つかひ、棒つかひの分際、策士説客の流で、人の上たるには適しませぬ、力は衆の力を使ふより大なるは無く、智は衆の智を使ふより大なるは有りません、自分は何一ツ出来ずとも衆を致し士を招くの道を能くすればそれが本当の人に長たる者です。で、宋江は然様いふ人に描けてゐます。廬俊義は余の百六人を一ト睨みといふ人で、意気の人に描けてゐます。扨呉用は軍師として描いてありますが、三国志で云はゞ孔明のやうな軍師型の人物を代表させてあります。公孫勝は魔法使とのみではありません、歴代の史を読んで御覧なさい、支那では真命の天子起る時は必ず異人が有つて之を祐けることが常です、で、宋江を助ける然様いふ俗ばなれした人に出来てゐます。関勝、林沖、秦明、呼延灼其他多くの勇将は武人をあらはして居り、柴進李応は貴と富とをあらはして居ります。魯智深は禅僧、武松は行者、此等は其最後のところに至つてそれらしくなるところが、其人の本来有るところの地と思はせます。戴宗等の牢獄官はいづれも牢獄官くさく、三阮、二張、李俊などは如何にも水上の人です。李逵は馬鹿でひどい奴、石秀は聡明でひどい奴、解珍、解宝は猟師気質、史進は坊ちやん気質で良い人、燕青は恐ろしい怜悧で洒落者、陳達だの王英だのといふ手合は真に山賊でもするほかに能は無く、時遷は小賊、白勝は小博打打、かういふ人々に至るまで、皆それ/″\に何等かを代表してゐるので、詳しく言へば楊志は名家の落ぶれ、流石に昔ゆかしき人柄ですし石勇は気ばかり強くて能の無い男、意気はすさまじくて天下の人を草鞋の下の泥だと思つてゐるところは偉いが兎角そんな事をいふ者は余り沸つた事も出来さぬが世の実際である。(同前)
 

 

 
 軍談や機略謀略についてなら『三国志』が、市井の風俗についてなら『金瓶梅』が、民間信仰民俗学的知識ということなら『西遊記』や『聊斎志異』がそれぞれより豊富であろうが、宮廷の密議から街の片隅の諍いまで、儒教から道教、仏教まで、忠義や孝といった徳目から無差別な虐殺まで包含するような「世界」を形づくっているのは『水滸伝』しかない。
 
 思えば、中断した露伴の長編小説というのは、「風流微塵蔵」にしろ「天打つ波」にしろ、そうした全体性を目指したものだった。あるいは、この重労働は、中断され、ついに完成することのなかったかつての野心を翻訳という形で辿り直すことであったかもしれない。だが、露伴にとって『水滸伝』とはそうした後ろ向きの意味合いだけをもっているわけではなかった。小説と入れ替わるかのように書き始められた史伝はまさに『水滸伝』によって象徴されるような世界を形づくっている。
 
 「解題」によると、露伴が参照できた『水滸伝』はおおよそ次のようなものがあった。
 
 一。金聖嘆評の七十回本。先にも述べたように、露伴が『水滸伝』を訳した大正十四年前にもっとも流通していたのがこの版だった。金聖嘆に向けられた露伴の痛罵は改めて触れることはしないが、七十回本が好まれたのは、『水滸伝』は人心を煽り、乱を好む内容から流通を禁じられていた為に、書店の方も百二十回本を刊行するのが苦労も危険も多く、約四分の一短い金聖嘆のものが好まれたのだろうと推測している。聖嘆本も数種類あり、一長一短あるが、もともとが改悪なのだからその細部をいちいち論ずることもない、と露伴は切って捨てている。
 
 一。李卓吾評百回本。明の版。内閣所蔵であったらしく、数年前に眼にしたが珍しい版でそれ以来眼にしたことはないという。本文はほとんど百二十回本と変わらない。李卓吾の序がある。
 
 一。李卓吾評百二十回本。明の版。楊定見の序がある。袁無涯が、定見の蔵していた本を得て刊行した。『水滸伝』はあまりにも長く、これまでにも回数がけずられ、詩詞というある種の文語的美文が省略されることも多かった。これは李卓吾の百回本に、それより以前の百二十回の郭武定本を増補したものである。当時現存していたなかではもっとも本来の姿に近く、露伴の訳はこの版によっている。
 
 一。郭武定本。明の版。原本に最も近いと思われるが、露伴は眼にしたことがないという。
 
 一。李卓吾評、金閶暎雪草堂本、三十巻。明の版。李卓吾の評が百二十回本と異なっていること、回で分けないで巻数で分けていること、内容的に相当相違があることなど、違いが多い。帝国大学にあるが、相当珍しい版だとしている。
 
 一。京本増補全像演義評林水滸志伝二十五巻。明の版。各ページの上半分に図があり、図上の欄外に短い標語が載っているような妙な版だという。
 
 新潮社の『世界文学小辞典』の駒田信二の記事によれば、『水滸伝』自体は明(1369~1644年)の小説だが、断片的な説話の発生はずっと古く、北宋の末から南宋のはじめにかけてだという。
 
 北宋の宣和年間(1119~26年)に小説で頭領になる宋江をはじめとする三十六人の賊が、山東、河南、江蘇の地で大いに暴れまわり、官軍を悩ませたが、やがて降伏したという記述が『宋史』にあるという。
 
 この反乱は農民蜂起だったらしいが、民衆に語り継がれ、講談や芝居になり、元代(1279~1367年)には、各登場人物を主人公とした戯曲も数多く生みだされた。それをまとめたのが施耐庵であるが、施耐庵が実在の人物であるかも長いあいだ明らかではなく、1950年代にようやくその実在と、『水滸伝』の作者と認めてもいいことが中国でも確かめられた。
 
 つまり、露伴が訳していたころにはいまだ作者さえもが定かでなかったので、どの版をもとにするかがより重要な意味合いをもっていた。駒田信二によれば、もっとも古い版は十六世紀のはじめころにでた百回本であるらしく、百二十回本をもっとも古いものと見ていた露伴は間違っていたことになる。
 
 しかし、それぞれの経緯をもった百八人の英雄が、梁山泊に集まり、最後にちりぢりになるという百二十回本に露伴が『水滸伝』の精髄を見ていたことは変わらない。
 
 語り物が集成され、一篇の物語になるということは『平家物語』や『太平記』をはじめとして日本でも珍しくはないが、役人、武官、学者、商人、農民、猟師、漁師、盗賊、やくざもの、といった多様な出自の者たちが、貴種流離譚に落ちつくこともなく、身分や血筋を問いあうこともなく、好漢であるという一点において意気投合し、蕩々たる物語を形成するのは物語の歴史を顧みても、ちょっと他に類を見ない。
 
  結局、露伴李卓吾評の百二十回本をもとにして翻訳を進めることになるのだが、李卓語と金聖嘆という二人の人物を並べてみると、露伴が金聖嘆にはあまりに厳しすぎるという印象もぬぐえない。というのも、同じく『世界文学小辞典』で村松暎が述べているように、金聖嘆は「文芸批評の立場としては、李卓吾の流れをくんで、さらに一歩を進めたということができる」からである。
 
 まずは楊定見による序(「原書小引」)を訳してみる。
 
 私が卓吾先生に従うこと、姿形を真似て、心を委ねる、卓吾先生の他にはいない。先生の言葉でなければ言わず、先生が読んだものでなければ読まない。狂っているとも病気とも言われるかもしれないが、我々が忘れられても卓吾先生がいたことは忘れられることはない。先生が亡くなってその名はますます尊敬され、教えはますます広まり、書物はますます広まった。僅かな片言も留めて発すれば、その珍しさは美しい草のようであり、厳かなことは天地が傾くほどである。ああ、まことに盛んなことではあるが、不朽であるものもその吉凶を判断できる。先生の文を優れたものとする十人のうち七人、その人間性を優れたものとするもの十人のうちの三人、その胸中を叩けば、みな卓吾先生の実像をもっていない。私が呉に遊んでいたとき、陳無異使君を訪問し、袁無涯氏と会うことができた。挨拶も終わらぬうちに先生のことを問いかけてきた。私淑している誠意が眉に溢れていた。その胸中にほとんど卓吾老先生がいるようであった。それを縁にしばしば立ち寄っては語り合った。語っていると話は卓吾老先生のことになり、卓吾老先生が残した言葉を求めることに努め、卓吾老先生が校閲した書物を求める努力も大変なものだった。無涯氏は狂っているのか病気なのか。私は自分の荷物を探り、卓吾先生が校閲した忠義水滸伝、及び楊升庵集の二書をまとめてだした。無涯の喜びようは至宝を受けたようで、それを世に公にすることを願った。私は、どちらを先にすべきか問うた。無涯は、水滸にして忠義、忠義にして水滸とは、自らを知り自らを罪とする卓吾の春秋に近いものだろう、水滸伝を先にすべきだといった。ああ、卓吾先生でなければ水滸伝の精神を引きだせなかったが、無涯でなければ卓吾先生の精神を引きだせなかった、私が卓吾先生に仕えた期間は最も長いが、無涯が卓吾先生の教えを最も深く得たといえる、私は無涯に対して恥ずかしい思いだが、とはいえ、無涯も私がいなければ、誰が無涯の精神を引きだしたろう、だとすれば私も卓吾先生には背くことなく、無涯もまた私のこの遊歴に背くことはなかったというわけだと私は笑っていった。そして顔を見合わせて笑い、茶をともにすすり、卓吾先生の忠義水滸伝に付する文をとって、声を揃えて読んだ。川の急流は我々に答えるようで、私は無涯を忘れ、無涯も私を忘れ、卓吾先生だけがそこにはあった。
    楚人鳳里楊定見、船上にて書す。

 

  李卓語は明の思想家で、1527〜1602年の七十数年を生きた。しかし、その前半生は伝記的資料がほとんどなく、下級の官職を転々としたことだけがわかっている。彼が厖大な著作活動をはじめるのは、官職を引退した五十四歳を過ぎてからだからである。
 
 しかも剃髪をし、妻子を故郷に帰して、僧侶のような生活を送った。とはいっても仏門に帰依したわけではないようで、剃髪の理由を聞かれたときは、頭が痒かったからだと答えたという。佯狂とまではいかないが、中国にまま見られる奇矯な思想家だったのは確かで、それは代表作が『焚書』という人を食った題名をしていることからもわかる。
 
 思想的には王陽明の流れをくんでおり、朱子が「性即理」として、人間性とは理であり、それは世界を律する理に直結するものであるとして、理によって統一された形而上学的な世界観を展開したのに対し、王陽明は理とは情などを併せもつ心にしかないとした。
 
 それゆえ、人間性を観想することがそのまま世界を理解することに通じる朱子の立場が、いくらでも非実践的になり得るのに対し、人間がもつ心のなかに理を見いだすことができるという王陽明の立場に立つと、理とはある種の行為の果てにはじめて見いだされることになる。
 
 また、朱子による人間性とは、もちろん、儒教的な仁や礼を本来尊ぶべきものであったので、人を仁によって治め、礼をもって交遊する政治家や貴人になじみやすく、ある種エリート主義的なものとなりやすかったのに対し、心のなかに理があるとする王陽明によれば、平凡な庶民にも理への道が開かれることになる。
 
 李卓語は老荘思想の影響もあるだろうが、それをより先鋭化し、外からの因習や世俗的知識に影響される前の童心をこそ至上のものとした。そうした考えにしたがって『水滸伝』もまた評価されるのである。
 
 「苟も童心つねに存すれば、道理行われざるも、聞見立たざるも、時として文ならざるなく、人として文ならざるなく、いかなる態の文学とて文ならざるはない。詩に何ぞ必ずしも古選たるを要せん、文に何ぞ必ずしも先秦なるを要せん。院本、雑劇、西廂記、水滸伝、八股文、みな古今の至文なり。今さら何の六経ぞ、何の論語孟子ぞ。それらは道学先生の口実、仮人の淵藪にほかならぬではないか。」(『焚書』『世界文学小辞典』からの引用)
 
  こうした考え方はほぼそのままの形で、金聖嘆に受け継がれている。『水滸伝』でも官軍として賊を討つことを承諾した頭領の宋江などの評価が低く、暴れん坊たちの評価が高いことは、「童心」を至上のものとすれば納得されるし、官職についていようが、学者であろうが、やくざものであろうが、心において見いだされる理において梁山泊に結集した者たちが、忠義のためであろうが、賊に苦しめられている農民たちのためであろうが、官軍として取り込まれ、あまつさえその多くが最後には従容として死についてしまう七十回以降の展開は童心が汚されていく過程に他ならないからだ。