あがく

 「怖い夢でも見たの」

 「いや、なんでもない」

 そう答えたが、シャツはびっしょり濡れていた。

 「きのう、待ちくたびれたんじゃない」

 洗面台の前に行くと、自分は一個のクルミのなかに全世界を収めてみせると豪語したソフィストがいたことを思いだした。すると、幼いころ、万力のように挟み込んで、クルミの殻を割る小さな人形があったことを思いだした。頭の部分をぐるぐる回して力を加えていくのである。そのくせ、クルミを実際に割り、なかの実を食べた記憶は一切なかった。

 「年甲斐もなく、走ったんでしょう」

 ぐにゃぐにゃとした不明瞭な音を出しておく。

 「コーヒーがはいってるわよ」

 ひとり暮らしのときには考えられないことだが、食卓の上には青磁の花瓶があり、ダリアが活けてあった。

 「ダリアって菊の一種だっけ」

 「そうよ」

 「じゃあ、食べられるわけか」

 といっても、パセリなら苦みがあるだけまだしも、菊の仲間なんか間違って口に入れないかぎり、食べやしない。

 高層階というほど高いところに住んでいるわけではないが、窓から海が見えるのが自慢で、見たところは近いのだが、歩いて行くとなると20分ほどかかり、しかも、おそるべし、潮の力は侮りがたく、ベランダに出したものは金属であればみるみるうちに錆び、洗濯物は思いなしか乾きが遅い。

 「目玉焼きでもつける」

 「いや、パンだけでいい」

 「それで、どんな夢みたの」

 「吉田くんが来るよ」

 「いつ」

 「昼前には来るんじゃないかな」

 「食事はどうする」

 「駅弁祭りをやってるらしくて、買ってきてくれるみたいだ」

 ゆっくりコーヒーを飲んでいると、彼女は仕事を始めた。古い着物を買い集めては、ほどいて袋物につくりかえている。

 しばらくするとチャイムが鳴った。

 「はせ参じました」

 吉田くんが紙袋を下げて立っている。広げられた布の間を縫って奥に入ってもらった。

 「横川の釜飯です」

 彼女が歓声を上げた。普段好き嫌いが多く、椎茸も食べないのだが、釜飯のときだけは食べる。

 「しかし、どうしてあんずがはいってるんでしょうな」

 釜飯の唯一の難点は、ずっしりと重い土の釜をなかなか捨てられないことで、とっておいたところで小物入れくらいにしかならないが、中に入れたものがとりにくいことおびただしい。

 お茶を飲んで打ち合わせを始める。

 「宮城野に萩でも見に行きますか」

 いくつか候補を絞り、吉田くんを駅まで見送りがてら散歩に出る。

 「柴田さんはご存じですよね、断捨離を始めたらしいんですがね、捨てたはずのものが数日すると元の場所に戻っているそうです」

 「怪談かい」

 「違いますよ、結局必要だったってことですよ」

 帰ると、食器棚に釜飯の容器が伏せられている。

 広がった布のなかで、軽い夕食を済ませた。

 「ところで、どんな夢をみたの」

 「柴田って知ってるだろう、断捨離を始めたけど、捨てたはずのものが数日すると元に戻っているそうだ」

 「教訓は」

 「教訓ねえ、あがいてみても損はないってことかな」