シミュラクラへの扉ーー井伏鱒二『白毛』(昭和23年)

 

(012)釣 (百年文庫)

(012)釣 (百年文庫)

 

 

 私は釣りには6~7度行ったことがあり、ほとんど自慢以外のなにものでもないが、一匹も魚を釣ったことがない。しかもいまでは不思議なことに思えるが、当時は町の片隅に釣り堀があるのが珍しいことではなく、私の家の近くにも釣り堀があり、そこにもいったし、湖でも釣ったし、磯釣りもしたし、さらには船に乗って海に出ての釣りまでしたのだが、どの場面においても一匹も釣ったことはないばかりか、沖釣りの最後には船の底に引っかかった針を思い切り引いたことによって、竿を折ってしまった。

 

 開高健によると、釣りには気の長い人間のほうが向いているといわれるが、俗説であって、瞬間瞬間を刻み、釣れるか釣れないかでとらえる釣りには気が短い人間のほうが向いているという。わざわざ釣りをするために世界をめぐったほどの人が言うのだから、それなりの経験的根拠はあるのだろう。

 

 実際、私は特に海などへ行くと、釣りをする時間がもったいないと感じてしまう。ぼーっとしたり、磯遊びをすることのほうがずっと楽しいのだ。

 

 井伏鱒二開高健にとっては、文学的先達であるとともに、釣りにおいても敬愛すべき先輩であった。この短編で扱われているのは、渓流釣りで、開高健といえば海やアマゾンのような大河でばかり釣りをしていた印象があるが、剣呑な山道をたどりながら、スポットを探して歩く渓流釣りもしたかどうか、さほど愛読者であるわけではない私には即座に思いだすことはできない。どうでもいいようなものだが、そういえば私も、川だけは釣りの経験がない。

 

 そういうわけで、借りた竿で釣るばかりで、自分の道具をもったことさえないのだが、この短編は最近髪の毛に交じってきた白髪をてぐすに比較するところから始まっている。てぐすというのは、本来、カイコと同じような蛾の繭からとれる糸のことをいう。本編のなかでも触れられているが、いまのような化学繊維が使われる前は、馬のしっぽの毛なども使われたもので、それは桂文楽の落語『馬のす』やさらに詳しいことは幸田露伴の『幻談』にもあり、要するに、比喩としてではなく、自分の髪の毛を釣り糸にすることが、実感としてあり得た。

 

 「私」は四川の隣村に疎開している。四川は広島県尾道の東隣にある町であるが、「私」が四川のどちら側にいるかは特に記されていない。戦争が終わり、疎開先から東京に戻る予定が立ったので、隣村の四川の渓流にあった祠を見ておこうと思い立つ。三十年ほど前に覗いて、それ以後、幾度となく釣りに出かけることはあったのだが、特に祠には立ち寄ることはなかった。

 

 さて、実際にいってみると、稲荷様か薬師様をまつったものらしいが、思いの外小さく、また常夜灯として使われていたと記憶していた焼きものも真っ黒に汚れたものでしかなかった。

 

 がっかりするほど期待もしていなかったところで、帰ろうとする途中、二人連れの若者に声をかけられた。水が飲めるような井戸がないか、というのだ。聞いていたよりも釣り場がずっと遠く、また川の両側にはずっと木が植えられてあって、竿が思ったように振れないらしい。「私」は特に用事もないので、二人を案内がてら、井戸へ案内し、一緒に弁当を食べた。

 

 二人はウイスキーをもってきており、しばらくすると、酔っ払った様子だ。そして口論を始めた。どうやら一人が駅のホームにてぐすを忘れたらしい。ここで、てぐすというのは、釣り道具のひとつとしていわれているらしく、長く、海釣りのような場合にはリールに巻きつけられもする糸は道糸であり、その先端の部分、つまり、針や浮きや場合によっては疑似餌などをつけるごく短い箇所をいうようなのである。ホームに忘れたという男は、事実、そのほかの道具は揃っていると主張する。

 

 「私」は山一つ向こうの自宅に戻れば、都合をつけることができること、村の子供などは木綿糸を使っていること、馬のしっぽの毛でも代用できるが、抜くには手加減が重要であることなどをなかば二人のなかを取りなすようにしゃべるのだが、「こいつ、べらべらしゃべる男だよ。うるさいやつだ。ーーおい、おっちゃん、よくべらべらしゃべるな。」という言葉とともに一瞬にして状況が変わり、「私」は男たちに羽交い締めにされると、てぐすにするために髪の毛をむしられるのである。

 

 これは幻想的な世界が広がることでもなければ、超現実的なイメージが飛翔することでもない。最近髪の毛に白いものが混じり始めたことと同じ水位で、あえて言えばリアリスティックに描かれる。しかし、世の中なにがあってもおかしくないとはいっても、おそらくはこの出来事は現実に起きたわけではあるまい。つまり、幻想ともイメージとも異なる現実のシミュラクラを精巧に現出させているのである。