情緒纏綿デカダンスーー山内義雄『遠くにありて』

 

 

 山内義雄は1894年(明治27年)に生まれ、1973年に死んだフランス文学者である。ジイドの多くの作品を訳し、マルティン・デュ・ガールの長い長い小説『チボー家の人々』も訳した。デュ・ガールはジイドの友人でジイドはそこそこ読んでいるが、なにしろ『チボー家の人々』は長い長い小説なので、読んでいない。それに、シュルレアリスムから読書を始めたような私は、ロマン・ロランとかこの辺の小説を馬鹿にすることで読書生活を始めてしまったので、このあたりの小説はごっそりと抜け落ちている。

 

 しかし、このエッセイ集を読んで、他人とは思えなかったのは、「折れた撥」では筆者は私淑する文学者の手書きのものをいつからともなく集め出して、その中に永井荷風河上肇マラルメ、シャルル・ペギー、会津八一などと並んで、筆頭に幸田露伴の名前が挙げられていることがあって、こういう系列も考えられるのか、と仮想の道を幾度かたどってしまった。

 

 確か山内義雄石川淳の親しい友人であったはずで、生粋の東京人的なところは次のようなところにもあらわれている。「靄のなかの味覚」の一節である。

 

 「柳ばし、柳橋・・・・・・」その柳橋にあった橋本のことなど、今はもうおぼえている人もいないだろう。私の遠い味覚の靄のなかに、ぼんやりともる燈籠の灯とでもいったように、あの川添いの橋本のことが思いだされる。亀戸天神の藤を見に行った帰りには、いつもきまっておやじに連れて行かれたものだった。五代目菊五郎がひいきにして、いつも舟を仕立ててかよったと言われているその橋本は、南鍋町の昔の風月堂のフランス料理とともに、わたしの思い出の一番奥のほうで、ぼんやり黄ろい灯をにじませている。だが味覚の点では、あそこで出された玉子焼のうまかったことしかおぼえていない。それでいて、藤の咲くころになるといつも思いだす柳橋の橋本、わたしの場合、味覚それ自体というより、どうも味覚にからんだ季節感覚の比重のほうが大きいらしい。

 

 

 

 もちろん橋本にはいったことがないが、僭越ながら私も味覚よりは誰と食べたか、どんな季節に食べたかのほうが心に残り、そうした残影が東京に集中しているところで共感する文章である。

 

 また、岡野知十について知ることができたのはうれしい。知十は江戸趣味が濃厚な俳人であるが、その句は加藤郁也の何かで目にしてはいたのだが、詳しいことはなにもわからなかった。「知十翁のこと」では、知十の息子が山内義雄の大学での同級生であり、その縁で、親しく接することができたことが書かれている。珍しいのは知十の小唄が紹介されていることである。

 

  くゐな

 

だまされて

ゐるのがあそび なかなかに

だますおまへのてのうまさ

くゐなきくよのさけのあぢ



  お茶漬

 

二人一緒に暮すなら

茄子と胡瓜の漬き加減

涼しく箸をとり膳や

浮世はさらりと茶漬けせ

 

 

 このデカダンスは魅惑的である。