逍遙する書物ーー富士川英郎『失われたファウナ』(1980年)
森鷗外の史伝に、しばしば江戸時代の医学関係の本を鷗外が借りる人物として富士川游という人物が出てくるが、富士川英郎はその息子である。もともとはドイツ文学者であり、リルケのものを多く訳している。また江戸時代の漢詩に造詣が深く、『菅茶山』という鷗外に倣った史伝の大著をあらわしている。
私にとって、柴田宵曲、森銑三、富士川英郎は、実際の部屋では散らかっていてそれどころではないが、頭のなかでは同じ棚にはいっている。どの著者の作品も、特に奇をてらったところがなく、表だった技巧を凝らすことなく、詩や文章を紹介していくだけの文章が多いのだが、不思議なことに読んでいて面白く、飽きることがない。
ちょうど黄金期のハリウッド映画が、カメラの存在を意識させることなく、抜群に面白い映画を量産していたときのように、もちろん各人の鍛え抜かれた審美眼はあるのだが、その趣味性が意識させられることがなく、本がそこに読まれるべく存在しているかのようなのだ。
富士川英郎が柴田宵曲や森銑三と異なるのは、あとの二人がその守備範囲が、江戸から明治の時代に限定されているのに対し、ドイツ文学、より広くヨーロッパ文学といった方がいいが、それに日本に関しても萩原朔太郎を中心とした近代詩まで範囲が広いことにある。
この本は古今東西の詩歌のなかから、動物に関するものを紹介している。以下に各章で取り上げられる人物をあげてみよう。それ以外にも各所に俳句や短歌が入っているが、煩瑣になるのでそれは省略する。
蝿の詩 ウィリアム・ブレイク、天明から寛政へかけて江戸・京都で活躍した六如上人、萩原朔太郎「薄暮の部屋」、「蝿の唱歌」、リルケ『マルテの手記』。
蛇の詩 江戸初期の医者中山三柳の随筆『醍醐随筆』、千家元麿、室生犀星、D・H・ロレンス、リルケ。
蛙の詩 ドイツの詩人、リヒャエル・デーメル「静物」、六如上人、幕末の豊前の詩人村上佛山、萩原朔太郎、草野心平「月夜」。
蝶の詩 ヘッセの「晩夏の蝶」、菅茶山、リルケ、ジュール・ルナール、三好達治、廣瀬淡窓、萩原朔太郎、エミリー・ディキンソン「蝶」、安西冬衛。
蝉の詩 尾崎喜八「蝉」、三好達治、江戸の詩人大窪詩佛、宋の寇準、唐の薛濤、ギリシア詩歌、アンドレ・シュアレス、ヴァレリー、ラフカディオ・ハーン、尾崎喜八「鎌倉初秋」。
象の詩 柳原紀光の随筆『閑窓自語』、谷崎潤一郎の『象』、ルコント・ド・リール、高村光太郎「象」「象の銀行」、千家元麿、室生犀星の「象」。
獅子の詩 オーストリーの詩人、リヒャルト・シャウカルの「ペルセポリス」、ゲーテ『ファウスト』ニーチェ『ツァラトゥストラ』、白楽天、森島中良『紅毛雑話』、福沢諭吉『西洋事情』、西園寺公望『欧羅巴紀遊抜書』、リルケの「ライオンの檻」、高村光太朗の「傷をなめる獅子」。
虎の詩 正岡子規、ウィリアム・ブレイクの「虎」、萩原朔太郎の「虎」、『宇治拾遺物語』、江戸後期の儒者津坂東陽『夜航余話』、蔵原伸二郎の「虎」、中島敦「山月記」。
鶏の詩 コクトー、陶淵明、安西冬衛、三好達治、廣瀬淡窓、萩原朔太郎「白い牡鶏」、「田舎の時計」、伊藤整の「雪明り」。
鴉の詩 幕末の詩人村上佛山、北原白秋、永井龍男、讃岐の詩人尾池梅陰、萩原朔太郎、ニーチェの「寂寥」、唐の張継、大窪詩佛、日夏耿之介、ポー、堀口大学、ゲオルク・トラクール。
鼠の詩 アーサー・シモンズの「鼠」、江戸の医書『痩狗傷考付録』、ホフタンスタール『チャンドス卿の手紙』、ゲーテ『ファウスト』。
『失われた』と題名にあるだけに、どことなく挽歌的な調子があることが、この著者にしてはやや珍しい感じもする。
「蝶の詩」に引用されているリルケの詩をあげておこう。
墓場の塀を超えて
風に吹きつけられてきた 蝶々
たぶんほかの花よりももっと無尽蔵な
悲しみの花を吸いながら・・・・・・
墓に供えられた花が
ほかの花より躊いがちに咲くのを
すべての庭園のほしいままな努力のいとなみに
結びつけ ひきいれる 蝶々
という詩は、墓に供えられている花の蜜を吸った蝶が墓地の塀を超えて、ひらひらと舞ってくるところを歌っているが、この詩においても見られるように、蝶はしばしば陰影や、死や、霊の世界と結びつけられ、その世界からの使者としてもみなされているのである。