欲望と飢え――立川談志『短命』

 

立川談志ひとり会 落語CD全集 第14集「短命」「小猿七之助」「羽団扇」
 

  長屋はほとんどなくなり、人情の機微も感じられなくなった、へっついや十徳、行灯や提灯などの道具も使われない、着物は着られなくなり、髪は結われなくなった、町人や侍や、さらに細かくいえば、職人と商人、町娘と御殿女中などがそれぞれ用いる言葉の違いも認められなくなった。こうした理由から落語は時代にそぐわないと言われることが多かった。現代的な要素を取り入れる試みも多くおこなわれたが、とりあえずそのことは措いておこう。


 いまあげたような外面的なこと以外に、内面的にも大きな隔たりがある。そのことを感じさせるのが、たとえばこの『短命』のような噺である。伊勢屋の婿養子が死んだ。これで三人目である。八五郎がそのことを隠居に告げた。どの婿とも仲はよかったが、しばらくすると婿の顔色が悪くなり、そのうちに死んでしまったのだという。

 

 どうしてこう次々と死んでしまうのだろう、と首をひねる八五郎に、隠居はそれは嫁の器量がよすぎるのだろう、と答える。確かに、伊勢谷の娘は美人の評判が高い。だが、それが短命とどう結びつくのか八五郎には合点がいかない。

 

 伊勢屋ほどの大店だ、店は番頭に任せっきり、夫婦には特にすることはない、二人っきりで奥にいれば、ご飯を手渡すようなとき、手と手が触れあうこともあるだろう、そりゃ短命だ、隠居は幾度も繰り返してわからせようとするのだが、八五郎には納得がいかない。器量がいいんだろ、手と手が触れあったら、それだけではすまないだろう、と言われて、ようやく鈍感な八五郎にも呑みこめた。なるほどそりゃ短命だ。家に戻った八五郎は女房に頼みこんでご飯をよそってもらう。手と手が触れる、女房の顔を改めて見つめる八五郎、おっかあ安心しねえ、おれは長生きだ。


 話としてはよくわかる、だからこそ八五郎の鈍さを我々は笑う。しかし、吉原狂いならともかく、いかに美人とはいえ、ひとりの女と毎日交わって飽きないということなどあり得るのだろうか。いや、それ以上に、命を削るまで突き動かされる性欲がなかなか想像しにくくなっているのではないだろうか。

 

 「接して漏らさず」と言ったのは『養生訓』の貝原益軒で、この言葉のもとには道教がある。道教は自然がそれこそ自然に保っているバランスを理想とした。「接して漏らさず」といっても、射精をしなければいいというものではない。たとえば、『抱朴子』には「人はすべて陰陽の交を絶つべからず、久しければ、元気を壅閼ぐの病を致さん、故に幽閉の怨女、流浪の曠夫は、多病にして壽あらざるなり。然れども情に任せ意を肆にすれば、又た年命を損ず、唯だそれ節を得て、之を宣ばさば可なり。」とある。つまり、多淫も度の過ぎた禁欲も避けるべきなのだ。


 いまのほうがこの道教的な理想により近づいているというわけではない。命を縮めるといえば、性欲よりもアルコールやドラッグへの依存のほうが現在ではより切実なものとなっているだろう。それらは欲望というよりはむしろ精神的身体的な飢えといったほうが近い。そのために禁欲のように精神的な努力によって抑えこむことができない。『短命』に見られるような過剰な欲望とは似て非なるものなのだ。落語は欲望が過剰になり得る世界があることを教えてくれる。