秘するが花ーー柳家小さん『長短』

 

 気が長い短いとはよく言われることだが、あくまで相対的なものだけに、ある人物を指して気が長いあるいは短いと特定することは難しい。

 

 『長短』にはそれぞれ気の長さ短さを代表するような対照的な人物が登場するが、二人の人間が気の長短を本当の意味であらわしているのかどうか、はっきりしているわけではない。そもそも、長さを物差しで、重さを重量計で測るように、ここで、長短を測るのに正当なはかりが用いられているかどうかさえはっきりしないのだ。


 長さんと短七は、気が長い長さんに短い短七と、真反対なのに幼なじみで喧嘩さえしたことがない。長さんの気の長さといっては、相当なもので、訪問の挨拶で今日の天気に言い及ぶのに昨晩小便にいったことからはじめる。菓子をだすと、いつまでももぐもぐしていて、いっかな食べ終える気配がない。煙管をだして煙草を吸いだしたと思えば、のんでいるのかいないのかいつまでもぐずぐずしていて、見ている短七はいらいらしてしかたがない。

 

 煙草っていうのはこうして吸うんだと、煙管をひったくると何度も立て続けにのんでみせた。すると長さんは、おまえは気が短いくらいだからひとにものを教わるのはいやだろうな、怒りそうだな、と妙に思わせぶりなことをいいはじめる。そうなると気短な短七は気になってしょうがない。どうか教えてくれと、懇願するまでになる。

 

 おまえが煙草を吸っているとき、何服目かの火玉が煙草盆ではなく袂のなかにはいった、もしかすると取りだしたほうがいいんじゃないかな、ああ煙だけじゃなくて火がでてきた。おまえどうしてそういうことを早くいわないんだ、穴があいたじゃないか、それみねえ、そんなに怒るじゃねえか、だから教えねえほうがよかった。


 はたして、長さんは気の長い人物の、短七は気の短い人物の典型だといえるだろうか。最初に述べたように、長短は相対的であり、長さんは短七に比較して気が長い短いにすぎない、ということなのか。

 

 それだけでだとすると、この噺は、動作の俊敏さあるいは感情がどれだけ容易に表にあらわれるか、を描いたとなってしまう。感情がどれだけ直截的にあらわれるかは、内向性と外向性の違いをあらわしているかもしれないが、自ずからそれは気が長い短いとは別のことであろう。

 

 つまりは、この噺は、実際には相対的な相違をだしにして、二人の人間の相性のよさを語っているに過ぎないのだが、『替わり目』の夫婦と同じように、口に出して言うのも気恥ずかしいので、ある意味、計測、比較が可能な相違を表向きに、慎ましやかな大事なところは内に隠している。