スティーヴ・マックイーン(俳優の方)、カフカ
ウィリアム・ウィヤードの『トム・ホーン』(1980年)で久しぶりにスティーブ・マックイーンの姿を見た。『拳銃無宿』というテレビ・シリーズによって人気を得たのであるから、西部劇との親和性は高いはずだが、私が子供のころにはテレビの洋画劇場によって、『大脱走』や『パピヨン』などを繰り返し放映していて、特に好きだったのは『タワーリング・インフェルノ』という高層ビルが火災になるパニック映画で、確か、高層ビルの火災を題材に取り上げた本が偶然2冊出版されて、それぞれのいいところを取り上げて脚本が書かれたとおぼえている。実際、私はその2冊の本を買ったはずなのだが、さすがにその内容のことはほとんどおぼえていない。
『トム・ホーン』は実話に基づいている西部劇で、前半こそ撃ち合いがあるものの、トム・ホーン役のマックイーンが愛用しているのは、ライフルで、したがって、二人の男が対峙して、緊迫した時間が流れるというような場面はなく、しかも後半は未成年の殺人によって起訴されたトム・ホーンの裁判の場面が続く。一般的な西部劇とは異なるのは、ホーンに対立しているのが個人やある一家ではなく、各地域の保安官を巻き込んだ街々の有力者たちであり、個人対組織に位相が移しかえられている。
それはともかく、牢獄内での回想シーンによると、彼が逆恨みで馬に乗って撃ちかかってきた少年を、ライフルで撃ち落とし、殴りつけたことは確からしいのである。むろん、その出来事を彼を葬り去りたい者たちが利用したのは確かだろうが、道徳的に曖昧な状況で、実際彼が首つりにされて終わる変な西部劇で、マックイーンが西部劇がすでに成り立ち得ないことをアイロニカルに語るような映画に出るようなイメージはまったくなかったのでなおさら妙な感じになった。
カフカの「物語『あり戦いの記録』からの二つの対話」は題名通り二つの短い短編から成り立っているが、その一編目の「祈るひととの対話」は人目を引くようなパフォーマンスめいた祈りを繰り返している男を強引に捕まえて、話を聞くというもので、その男によると、自分は生きているという確信が持てたためしがない、かつては美しかった物が頼りない観念に崩れ去っている状態にあり、毎日道行く人が倒れて死人となり、商人たちが自分たちが売った物の代わりに死体をどんどん運び込んでいて、母親が近所のものと交わす何気ない会話でさえ、なんらかの意図を持った作りごとに違いないのだと訴えかける。
聞いている「ぼく」は当惑とこの世界の根拠のなさをなかば認めている自分に狼狽しながら、あなたのお母様と近所の方の会話などはそれほど不思議なものではなく、自分もそれに加わったことがあるくらいだ、といってやる。
ぼくがそう言ったとき、彼は非常に幸福そうに見えた。彼はぼくの着ている服がすてきだ、ぼくのネクタイがとても気に入った、と褒めた。そして、ずいぶんきれいな肌をしていらっしゃるのですね、と言った。それから、告白というものは、それが取り消されるときにはじめて意味がはっきりするものですね、とも言った。(川村二郎・円子修平訳)