魂の声ーー孟子からサドへ

 

孟子〈上〉 (岩波文庫)

孟子〈上〉 (岩波文庫)

 

 

 

孟子〈下〉 (岩波文庫)

孟子〈下〉 (岩波文庫)

 

 

 

童子問 (岩波文庫 青 9-1)

童子問 (岩波文庫 青 9-1)

 

 

 

啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫)

啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫)

 

 

 

美徳の不幸 (河出文庫―マルキ・ド・サド選集)

美徳の不幸 (河出文庫―マルキ・ド・サド選集)

 

 

 孟子は紀元前三世紀から二世紀にかけて、戦国時代のいわゆる「百家争鳴」の時代に生きた。
 
 司馬遷の『史記』によると、孔子の孫、子思の門人から学問を受けたのち、斉の宣王に仕えたが、宣王は彼の助言を採用しなかった。そこで魏の梁に移った。梁の恵王も彼の話を聞いたが、それを実行しなかった。
 
 その頃は、秦の力が強くなり、その他の国々はその力に対抗すべく、合従や連衡の駈引きに熱中していた。そんななか孟子が説いたのは古代の聖王たちの徳や仁であったから、力と力の争いに没頭していた王たちの耳にはいかにも迂遠に思われ、取り上げなかったのも無理がないことは想像できる。
 
 どこの王も彼の教えに耳を傾けようとはしないので、郷里に帰って、門人とともに孔子聖典とした『詩』『書』を整理し、『孟子』をあらわした。
 
 『史記』にある孟子の伝記はこうしたごく短いものだが、通常は最後に置かれる「太史公曰く」が冒頭に置かれ、『孟子』を読んでいて恵王が「先生はなにによって私の国をとませてくださるか」というくだりを読むごとに、利というものこそ乱の糸口であり、孔子は利のことをほとんど口にされなかった、と嘆息するのが常であると述べている。おそらくそこにはかつては聖人というものがいながら、いまではだれもが利によって動いている、という現状に対する批判と冷徹な認識が働いているのだろう。
 
 正直なところ、私は『孟子』には、『老子』や『荘子』ほどの魅力を感じない。『老子』の詩的なイメージがあるわけでもなければ、『荘子』のきてれつな寓話もない。
 
 また、『論語』には弟子それぞれの個性があって、人間の微妙なタイプの相違を、また教えるということの難しさを伝えているが、『孟子』で相手にされているのは各国の王と疑問をもって問いかけてくる門人だけであって、各王や門人たちの個性が描かれているわけではないので、結局は孟子という人物の論だけが残ることになる。
 
 またそのいっていることも、聖人を目標としていながら、王に自ら会いに行かないのはなぜか、であるとか、自説が受け入れられないことがわかったある国ではさっさと出て行き、別の国では未練でもあるかのように何日もとどまってから出て行ったのはなぜか、などといった細々したことに多くの章が割かれていて、説く相手の利害だけを考えた縦横家などの方がよほどすっきりしている。
 
 『孟子』を『論語』『大学』『中庸』とともに四書として聖典化したのは宋の時代の思想家である朱子である。日本では藤原惺窩や林羅山などの力があって、朱子学徳川幕府の官学として採用されることで、『孟子』も一般的になった。もちろん、それ以前にも読まれてはいたが、『論語』と同じような聖典として読まれていたわけではなく、限られた読者しかいなかったようだ。
 
 儒学道教的、仏教的要素を入れ込んで、形而上学的な靄に包んでしまったと朱子学を批判したのが、伊藤仁斎であり、原典に帰ることを主張した。彼が先達となって荻生徂徠本居宣長と続く反朱子学的な古学の学統が続くことになる。
 
 伊藤仁斎は1627年に生まれ、1705年に死んだ。ほぼ寛永と元禄の頃を生きたといっていいだろう。京都の町人として一生を過ごし、どの藩に仕えることもなかった。森銑三の「仁斎とその子達」は短い文章だが、仁斎の人柄の魅力を伝えている。
 
 京都所司代は、天皇に拝謁することもできる重職の役人だが、路上で仁斎を見かけたとき、高貴な方と思い違えて、馬から下りて挨拶した。奇をてらったことが嫌いで、節分には自ら上下を着けて「福は内、鬼は外」と炒り豆をまいた。仏教を信じてはいなかったが、寺に入ると本堂に向かって礼拝した。
 
 晩年、火事にあって家が類焼した。ある人が見舞いに行くと、堀川のなかに床をおいて、悠々と酒を飲んでいたという。見舞の言葉を述べると、「天災は是非に及びません。老人の癖に騒ぎ立てゝ、怪我などしてはと思ひまして、始めからこゝにかうしてゐます。まづお一つお上がり下さい」と悠々としていたという。
 
 何しろ余程の勉強家であったらしく、『古学先生文集』の「浮屠道香師を送る序」では、自分は若いときから非常に学問を好み、寝食を忘れ、日常的な細々したことなど顧みないで、ただ学問だけに没頭した。名声を得るために進むことも、利益を得るために務めることもせず、およそ飲食談笑、ひとの出入り応接、野に遊ぶこと、山を眺め、水と戯れること、巷の歌を聞き、芝居を見ることも、どんなことでも機会があるごとに学問を進める場所になる。
 
 自分の性格は愚かで魯鈍であり、いうに足りない。だが、学問を好むことだけは、聖人であろうとも譲るものではない、という意味のことが書かれている。仏教や老荘思想を批判したが、そのどちらについても生半可な学者などよりは余程精通していた。
 
 仁斎の古学は朱子を批判することから始まったが、朱子が四書のうちに孟子を加えたことを責めはしなかった。もっとも、『大学』『中庸』については、取るべきところもあれば取るべきでない箇所もあると距離を取っている。
 
 『語孟字義』は孟子の教えの中心となる言葉を取り上げて、そこに朱子学的な歪みを経ない元の意味を読みとろうとするある種のキーワード事典ともいうべきものだが、むしろ『論語』について最大限の賛辞を呈している。
 
誠にもって論語の一書、その詞平生、その理深穏、一字を増すときはすなわち剰ること有り、一字を減ずるときはすなわち足らず、天下の言、ここにおいてか極まる。天下の理、ここにおいてか尽く。実に宇宙第一の書なり。
     (吉川幸次郎の読み下しによる。以下同じ。)
 

  

 これだけ完全な書物があるからには、それこそ世界そのもののように完結しており、他の書物を必要としないのではないかと思われるのだが、なぜか『孟子』は欠かすことはできない。『論語』への最大級の賛辞から引き続き、『孟子』についてはこう言われている。

 
孟子の書も、亦論語を羽翼して、その詞明白、其の理純粋、礼記諸篇、秦人抗燔の餘に出でて、漢儒附会の手に成るがごときにあらず。故に論語に次いでその言誤り無き者は、ただそれ孟子か。
 
 抗燔とは焚書坑儒のこと。
 
 あるいはまた、初学者の問いに答える形式を取っている『童子問』では、先生は『孟子』を『論語』の意味を説き明す書だとしていますが、そうであれば、もっぱら『論語』を読んで、『孟子』は必ずしも読まなくてはいいのではないでしょうかととわれて、おおむね次のように答えている。
 
 そうではない、『孟子』を熟読しなくては『論語』の意味に達することはできない。いわば『論語』への渡し船である。『論語』はもっぱら仁義礼智を修める方法を説いているが、その意味をあきらかにしていない。『孟子』の時代、聖人は既に遠い過去のものとなり、道も大義も失われてしまったために、その意味を分析し、理をあきらかにする必要があった。そうした状況はいまも大した変化はないだろう。それゆえ、『孟子』によって意味をよく把握した上で、『論語』を読まなければ、間違った意味の取り方をし、道を誤ることがある、と。
 
 『語孟字義』で仁斎は学問の対象となるものを二つに分けている。すなわち、血脈と意味である。血脈というのは体系のことを意味し、儒教でいえば、仁義礼智の教えなどがそれにあたる。
 
 意味というのは普通に用いられる意味のことだが、本来の意味は時間の経過によって、状況の変化によって、あるいは後世の賢しらな解釈によって損なわれていることが十分にあり得る。意味は血脈のなかにあってこそ、つまり、体系のなかにあってこそそれこそ固有の意味をもつにいたる。
 
 たとえば、敬虔な信仰者と無神論者では、神という同じ言葉を使っても、しかも神ということで意味されている様々な概念がほとんど同じことがあるかもしれないが、それぞれの体系あるいは考え方で、神の占める位置がまったく違うことによって、まったく異なった価値をもった観念となっている。
 
 このように意味、より正確に言えば、意味の価値は体系から生じるので、学問をするものはまず血脈=体系を理解しなければならない。もしそれを理解しないで進むと、舵のない船のように、明かりのない夜のように、ぼんやりとしてどこに行きつくのかわからない。そうした意味で、方向性を知るためにも血脈を先に知っておく必要があるが、難易をいえば意味の方が理解するのが難しいという。
 
 文脈によってどうにでも変わってしまう茫漠としたものであるために、意味はよほど見識のあるものでなければ知ることはできない。こうしたことを踏まえると、『論語』と『孟子』の読み方も自ずから異なってくることになる。
 
語・孟の二書を読む、その法おのずから同じからず。孟子を読む者は、当にまず血脈を知るべし。しこうして意味おのずからその中に在り。論語を読む者は、当にまずその意味を知るべし。しこうして血脈おのずからその中に在り。
 
 『論語』の言葉は老荘思想、仏教などが共有することによって、あるいはまさしくそれらが混濁したものとして解釈した朱子学によって、本来の意味を失っている。それゆえ、『論語』においては本来の意味を知ればその道筋は明らかとなる。
 
 反対に『孟子』は、『論語』の注釈者としての血脈、位置づけさえわかっていれば、意味はおのずから明らかになる。つまり、両書は完全に相補的な関係にあるわけである。
 
 そうなると、孟子といえば一番有名な性善説も、『論語』の意味を敷衍した結果出てきた説ということになろう。しかし、この説もいざ実際に『孟子』を読んでみるとそれほど強い説得力で訴えてくるわけでもない。もっともよく知られたたとえ話としては、よちよち歩きの幼い子供が井戸に落ちそうなところを見れば、誰でもはっとして助けようとするだろう、それはつまり人間にはあわれみの心が生来備わっているためだ、というものがある。
 
 しかし、本当にそうだろうか。もちろん大部分の人間は助けようとするだろうが、それこそ頽廃した時代に生きている我々には、状況やそのときの心理を考えると、助ける方に向かわない人間の存在も容易に想像できてしまうのは確かだ。そうなると人間性のなかに本来善が含まれているという普遍性は損なわれるだろう。
 
 時代も国も異なるが、カントもまた道徳を形而上学的に位置づけようとした。つまり環境や時代によって変化することのない精神における物自体のようなものとしてとらえたが、その宗教論では根源的悪という問題に直面せざるを得なかった。
 
 また、アドルノとホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』では、啓蒙によって普遍的に広められるべき理性や合理性が、いわば空虚な形式であり、あらゆる倒錯と殺人を称揚するサドの論理を矛盾なく受けいれるものであることを明らかにした。
 
 サドの登場人物は、戯画的に貞淑そのものとして描かれるジュスチーヌに向かい、魂の声を消し、無感動になることを勧める。それを反面教師とするなら、空虚な形式とかした啓蒙を活性化させるには、魂のつぶやきを聞きもらさず、退落への抵抗の手がかりとすべく、感動を層化して実質を詰めていくしかない。