戦いの感動――立川談志『文七元結』

 

  『文七元結』は好きな噺だが、感動するのは立川談志のものだけである。古今亭志ん生志ん朝などでも聞く機会があったが、面白くはあってもそれほど感動に結びつくことはなかった。


 左官の長兵衛は腕のいい職人だが、博打にはまった借金で身動きができなくなってしまった。見かねた娘のお久は自分が吉原に身を売って窮状を助けようとする。お久を預かっているという吉原の佐野槌の女将にもさんざん意見された長兵衛は、五十両を借り受けて生活を立て直すことを決心する。

 

 ところが、吾妻橋を通りかかると、若い男が身を投げようとしている。慌てて止めて、話を聞いてみると、鼈甲問屋近江屋の手代で、店の金五十両を掏られてしまったお詫びに身を投げるのだという。いくら止めても聞かないので、長兵衛は手にしていた五十両を男に投げつけて去ってしまった。

 

 一方、近江屋ではいつまでも帰らない手代の文七を心配していた。碁に夢中になった文七は得意先に五十両を忘れてきていたのだ。余分な五十両がでてきたものだから、主人が問い詰めると、文七は橋の上での一件を話した。

 

 長兵衛の心意気に感じ入った主人は、酒を買い、お久を身請けした上で五十両をもって挨拶に出向く。長兵衛は文七の親代わりとなり、近江屋とは親戚づきあいをすることになる。文七とお久は夫婦となって元結屋を開いた。


 ニーチェはこう言っている。「魂の皮膚――骨が肉に含まれ、皮膚が血管を包んでいるように、人間がある状況を耐えられるようになるのは、魂の諸情動や諸情熱が虚栄心によって包まれているからである。――それは魂の皮膚なのである。」(『人間的、あまりに人間的な』)虚栄心は見栄っ張り、あるいはプライドと言い換えてもいいだろう。立川談志がプライドに異常ともいえるこだわりを見せていたことはよく知られている。

 

 後から入門した古今亭志ん朝が談志を飛び越して真打ちになったときには、辞退しろと迫った。また、録音が残っている手塚治虫との対談では、自分の公的な位置づけに対してなんら頓着していないらしい手塚治虫を不思議がっている。


 長兵衛が期限つきとはいえ娘を売った金を見も知らぬ男に与えることについては、どれほど大事な金とはいっても人の命に代えられるものではない、といった理由づけが噺のなかでもなされ、また多くの落語家によって採られている解釈なのだろうが、談志の『文七元結』ではそこが決定的に異なっていると思える。長兵衛は佐野槌へ出向いていくときにも、着ていくものがなく女房のぼろぼろの着物を剥いで身にまとう。本来なら聞くいわれのない女将の小言を神妙な顔で聞かなければならない。女将に言われていつもは親だと威張っている娘に対して礼を言わされる。


 つまり、身にまとっているすり切れた着物同様に、長兵衛のプライドも既にぼろぼろになっているのだ。金より命が大切だというのは、長兵衛にとっては一般的な倫理などではなく、生存理由の根本であり、自分に最後に残されたプライドなのである。いくらぼろぼろとはいえ、この着物=皮膚を脱ぎ捨て魂(大切な娘)を選択しようとすれば、実は魂までも死んでしまうことが本能的にわかっているために長兵衛は金を投げつけるのであり、プライドを生存条件として戦ってきたような落語家が立川談志しかいないために、『文七元結』は談志においてひときわ感動的になるのである。