蝸牛映画ーーピーター・グリーナウェイ『ZOO』(1985年)

 

 

脚本、ピーター・グリーナウェイ。撮影、サシャ・ヴィエルニ。音楽、マイケル・ナイマン

 

 ピーター・グリーナウェイの『ZOO』(1985年)、交通事故で、車に乗っていた二人の女が死に、アルバ(アンドレア・フェレオル)という女一人だけが片足を切断することで命を取り留める。

 

 死んだ二人の女は動物園つきの生物学者兄弟(ブライアン・ディーコン、エリック・ディーコン)の妻で、この兄弟は、周囲には黙っていたが、実はシャム双生児で、分離手術の結果、二人の別々の人間として生活している。しかし、二人は、妻を失うことによって、死んだ生物がたどる腐敗という現象を記録することにオブセッションを抱くようになり、その対象となる動物はリンゴや小エビのような果実、小動物から、フラミンゴ、犬、シマウマとどんどん巨大になっていき、ついには人間の腐敗を記録したいという欲望にとりつかれる。

 

 一方、片足を切断されたアルバは、マッド・サイエンティストであり、フェルメールに異様な関心を寄せる医者(ジョス・アックランド)によって、片足が残されていてもシンメトリーを崩すだけだという美意識が理由で、残されたもう片方の足も切り取られてしまう。兄弟は弱っていくアルバの死後に彼女の腐敗を記録したいと願うのだが、彼女の家族にも反対され・・・・・・

 

 シンメトリーと、腐敗を含めた生物の様々な生態、そして照明技師としてのフェルメールという三つの指標をめぐって映画は進んでいく。グリーナウェイの最愛の映画はアラン・レネの『去年マリエンバードで』であり、同作を撮影したサシャ・ヴィエルニを迎えている。撮影地はイギリスではなく、オランダらしいが、特に夜の動物園がつややかで美しい。

 

 カタツムリを中心とした動物を除けば、クローズアップはほとんどなく、そもそも登場人物の感情の動きなどに監督はまったく関心がないようである。マイケル・ナイマンの音楽が多くの場面で朗々と響き渡っているので、状況をじっくりみせるつもりもはじめからない。

 

 兄弟が腐敗に固執するのは、有機物が腐敗によって分解していく過程に、そもそも生命が誕生した生命のスープである海と交叉する瞬間があるはずであり、そこに根本的な生命の神秘が発見できるはずだというのだが、そこにシンメトリー、つまりは被写体という分身、それに物体と色彩を成り立たせている光が加われば、映画を成立させるための根拠が問われているに等しいが、そこに物語がほとんどつじつま合わせのためにしか要求されないというのが、グリーナウェイらしい。

 

 DVDのブックレットに掲載されているフィルモグラフィーを見ると、グリーナウェイが多産な作家なのを知っていささかびっくりした。腹案を練って、それを具体化して、ロケハンや制作費などを調達して、などの時間がかかるためにあまり日本で紹介されないのかと思っていたが、まったく反対で、短編でもテレビの企画でもオペラの演出でも見境なく、数多くの作品がつくられていて、その一部である長編劇映画が紹介されているに過ぎないのである。

 

 演劇のように、というのはもちろん、演劇を撮影するという単純な話ではないが、演劇を補助線にして映画を作っていく監督たちがいるとすれば(たとえば、ベルイマンやフォスビンダー)、グリーナウェイは絵画を補助線として映画を撮るタイプの監督で、それゆえ、物語などさほど気にすることもなく、いつでもデッサンを描く用意はできているらしい。