ドッペンゲンゲルについて

 

 

 

エクリ 1

エクリ 1

 

 

 

眼と精神

眼と精神

 

 

 フロイトが「無気味なもの」で、無気味だという感情が喚起されるのが未知のものによってではないと述べた。たとえばフロイトが参照したイェンチェは、無気味という感情を人間が新しい、見慣れぬものに対した時に覚えるものだとした。不気味だという感情は知的な不確実さによるのであり、新しいものが見慣れたものになり、親しいものになれば不気味だという印象は消え去るだろう。
 
 一方フロイトは、無気味なものをダイナミックな関係のなかで生まれるものとした。無気味なものの性格は、それが知的に把握できないなにかであることよりも、むしろ隠れていたものがあらわになる働きのうちにある。
 
 それゆえ、両者は同じ物語について語りながら全く異なったところに不気味さを認めている。
 
 ホフマンの『砂男』で不気味さが集約されているのは、イェンチェによれば、主人公のナターニエルが恋をするオリンピアである。オリンピアは実は自動人形なのであるが、読者に容易にその結論を導かせないオリンピアの曖昧さが、『砂男』を無気味なものにしている。
 
 フロイトが認める『砂男』の無気味さとは、人間が幼児の時からもつ眼を失う不安、そして精神分析的な経験によれば失明の不安に強く結びついているという去勢不安が、砂男を通じてあらわになっていることにある。砂男は、自動人形のオリンピアを打ち壊し、ナターニエルが長い病から回復してもとの婚約者のクララと幸福な結婚生活に入ろうとするときに再び現われ彼を自殺に追いやる。
 
 つまり砂男はナターニエルにとって常に恋愛の妨害者であり、去勢不安を掻き立てる恐ろしい父親像としてある。この砂男、恐ろしい父親像がわれわれにとって幼児期からお馴染みである不安、しかし常日頃は意識にも留めず、既に克服したと思っていたものをあらわにすることに無気味さがある。
 
 ナターニエルは婚約者であるクララよりもずっとコッペリウス、すなわち砂男と強力に結びつき、恐怖に満ちた共感を交わしており、クララと共に登った市役所の塔からコッペリウスの姿を認めるやいなやクララを捨て去ってしまう。
 
 そして、ナターニエルは「虚無の際に身を乗り出す」かのように欄干から身を乗り出すのだが、その相手であるコッペリウスは自らも「虚無の際に身を乗り出す」ことによってナターニエルの交感への激しい希求に答えることなく、「まあお待ちなさいよ、今に自分で下りてきます」と言って、宙に、虚無に身を投じるナターニエルを冷然と見守るのである。砂男は、ナターニエルの死を賭けた行為にすらなんの返答をももたらさない。
 
 また、フロイトによれば、ドッペンゲンゲルの無気味さは幼児期との関わりによって解釈される。ドッペンゲンゲルは、もともとは逃れることのできない死に対する防御が作り上げる。死の後も永続すると考えられた不死の魂が形象化されたものであり、もう一つの自分を作ることによって朽ちてゆく身体を形代にして死の災厄を逃れようとする「原始的自己愛」にその起源をもっている。
 
 しかし、そうした呪術的な効果が信じられなくなった後も、「原始的自己愛」の代りに、意識にある「自己観察、自己批評の役割」を果たす部分が分離し、古いタイプのドッペンゲンゲルの観念に新しい内容を盛り込んだ形でこの観念は生き続けることになる。
 
 ドッペンゲンゲルは、かくして、批評的な自己が自分として認めることのできない不愉快な部分、あるいは逆に、自分がついに到達することのできなかった願望の上でのありうべき自分が外部に投影されたものである。
 
 だが、こうした排除したい自分や実現したい自分の像は不快な感じや熱望を駆り立てることはあっても恐怖小説に頻繁に取り上げられるような無気味さを呈することはないだろう。「自己観察、自己批評」によって消し去りたい自分、実現したい自分を認めることは意識の働きにとって本質的なことであり、単にそれだけではドッペンゲンゲルとして「自我から外へ向かって投影させるあの防衛努力を説明」することはできない。
 
 それゆえ、「無気味なものの性格は唯ただ、ドッペンゲンゲルがすでに克服された心理的原始時代に属する形成物(むろんその当時はもっと親しいものであったのだが)であることに由来するのである。神々が、彼らを支えていた宗教の滅亡以後は悪霊となるように、ドッペンゲンゲルは恐怖像となったのである。」(同右)と解釈される。
 
 だが、幼児期においては親しいものであるドッペンゲンゲルはなぜ忌まわしいものとして抑圧されてしまうのだろうか。フロイトが「無気味なもの」で示唆しているのは、周囲の環境と未分化であった自分が自我の確立によって外界と距離を取ることができるようになり、以前の未分化の状態をもはや確固とした自我に対する脅威としか感じられなくなることによるということである。
 
 カネッティ流に言えば、自我が強固になるのに比例してそれを脅かす接触に対する恐怖が高まる、つまり、自我の確立を周囲の環境を支配する能力の獲得であるとするならば、未分化な自分への退行は一度得た支配力を手放し、無力な状態に、しかも幼児期におけるような庇護を受けることなしに逆戻りすることであり、不安と恐怖を引き起こすのに十分である。
 
 幼児期の、周囲の環境と未分化な状態のときには、盲目的とも言える同一化の力があって、幼児は自分の生活に接続しているものであればどんなものにでも自分を感じることができた。ドッペンゲンゲルは自分というものが身体を無理なく超え出ていた幼児期の残影のようなものだと言うわけである。
 
 確かに、ドッペンゲンゲルではこの私の自我の固有性がもう一人の私の出現によって脅かされる。だが、そこでの脅威は自我の輪郭がぐずぐずと崩れることにあるのではない。ドッペンゲンゲルは不定形なものとして、あるいはなにか生活に貫入するゲル状のものとして現われて同一化を促すわけではなく、輪郭を備えた一人の人間として現れる。
 
 ラカンの「鏡像段階」は、生後6ヶ月から18ヶ月の幼児の振る舞いから推論することのできる人間形成の基本的な段階である。この時期の幼児はいまだ庇護者がいなければ生きていくことはできず、そうした意味では環境に対して何ら支配力を持たない未分化の状態にとどまっている。現実的には、環境から独立したものとしての身体を持たず、したがって一個の全体としての身体でもって行動することができない。
 
 だが、そうした状態にあるにもかかわらず、この時期の幼児はいまだ獲得していない統一された全体としての身体を想像的に先取りする。先取りは、鏡の中の自分の姿を自分と認めることに象徴的に表わされるものであるために、この時期は「鏡像段階」と呼ばれる。
 
 この身体の統一像は、まだ成人の自我には遠いが、自我の原型であり雛型であると考えることができる。幼児はあらかじめ自我の素描のようなものを持っていてそれを鏡に移った像によって確認、再認するのではない。鏡に映った身体の全体像のうちに自我を発見するのである。
 
 ラカンの「鏡像段階」という概念を導入すると、フロイト的なドッペンゲンゲルの解釈が全く異なった照明のもとに浮かび上がってくることになる。というのも、フロイトは、いわば、ドッペンゲンゲルの無気味さを幼児期の未分化な状態に、その性質を自我と超自我や無意識との分裂に帰しているが、ラカンが示唆するように自我がもともと鏡像に、外部にあるものであって、自我から超自我や無意識が分化し、そこに分裂が生まれるどころか、自我そのものが既に分裂であり、「分身が始めにくる」ものであるとするならば、フロイトが飛ばした部分、未分化な幼児の状態と自我と超自我や無意識が分裂する時期の間、自我が想像的に先取りされ、鏡に映った全体像によって自我が形成されるまさにその時期においてドッペンゲンゲルの無気味さと性質とが落ち合うだろうからである。
 
 自我の形成が分裂に基づいており、鏡の中に自分の分身を見ることを契機にしているとすると、ドッペンゲンゲルの無気味さは何に由来するか。ラカンによれば、幼児は「自分の鏡像をこおどりしながらそれとして引き受ける」(「<わたし>の機能を形成するものとしての鏡像段階」『エクリI』所収 宮本忠雄訳)というが、そうした喜ばしい体験の変奏とも言えるものが恐怖を引き起こすのはなぜなのだろうか。
 
 メルロ=ポンティは、鏡像を体験する幼児が自我を形成するのに乗り越えなければならない障害は、二つに分裂した自分を統一することではないと言っている。
 
 つまり、触覚的に感じられるこの場所にいる自分と、視覚的に捉えられた離れた鏡のなかの自分という二つに分裂している自分を一つに統合することが鏡像の体験において決定的なのではない。
 
 というのは、幼児には、成人の知覚の場合のような、空間内の事物それぞれをはっきりとわける視点、空間を配分する能力がないからである。それゆえ、「<鏡の中の像>と<感じられている身体>を隔てる距離があってみたところで、本当は視覚的身体と内受容的身体との間に真の二重性や二元性が存在しているのでないとすれば、それら二つの統一ということはそれほどの大事件とはならぬ道理」(「幼児の対人関係」『眼と精神』所収 滝浦静雄訳)だということになる。幼児は鏡像を「身体の一種の距離をもった同一性、つまり偏在性」として捉えている。
 
 自我の形成において決定的なのは、むしろ、次のようなことである。
 
   もし鏡像の現象の中で<他人の現前>というものが果たしている役割を認めるならば、幼児が乗り越えなければならぬ難関の性格も、おそらくもっとよく規定することができましょう。幼児にとって難かしいのは、身体の視覚像と身体の触覚像とが、空間の二点に位置しているにもかかわらず実は一つなのだということの理解ではなく、むしろ鏡の中の像が自分の像であり、しかもそれは他人が見る自分、つまり他の主観に呈示される自分の姿なのだということを理解する点なのです。ここでの綜合は、知的綜合ではなくて、他人との共存に関する綜合です。          (同右)
 
 鏡像段階においておおむね幼児はナルシシズム的な状態のなかにいるが、このナルシシズムは暗黙のうちに他人の現前を取りこんでしまっているのだと言える。
 
 鏡の中に自分の姿を認めることは、「自分を一度も見たことのなかった」幼児が「自己自身の視像がありうる」ことを学ぶのと同時に、それが「他の主観に呈示される自分の姿」であることを理解するということである。自己自身の視像の存在を知ることは、私が、いまここに直接感じている私である以上に鏡が与えてくれる私の像であり、「たえず理想的・虚構的・想像的自我に関わる」ナルシシズムを助長する。
 
 だが、ナルシシズムをもたらす鏡像は、同時にそうしたナルシシズムに冷水を浴びせかける認識を準備している。それが「他人の現前」であり、他人の存在を認めることは、「他人は、私について、鏡の中の像と類似した<外的視像>しか持っていないし、したがって他人は鏡よりももっと確実に、私を直接的内面性から引き離してしまう」ということを認めることである。
 
 しかし、同時に、他人の存在というものは常に暗黙のものでありつづけるだろう。「理想的・虚構的・想像的自我に関わる」ナルシシズムは幼児期に限られるものではなく、成人の生活においても十分に認められる。他人の現前でナルシシズムの殻が打ち壊されることによって、幼児から成人へと成長するというよりは、単なる他人の存在によっては脅かされないようにナルシシズムがより柔軟に、より狡猾に変化してゆくことが成長することであると言えるからである。
 
 実際、例えば、『存在と無』のサルトルは、誰もいないつもりで鍵穴に屈み込み、扉の向こうの様子を探ろうとしている私を突然に襲うまなざしに他者の出現を見ている。言葉を変えて言えば、そうしたある意味で異常な条件下でなければ他者の存在は顕在化されることはない。しかも、こうして顕在化される他者でさえ、私が見られることによって感じる恥によって発見されるのであって、他者は私が恥を感じている状態の反映なのである。
 
 鏡の中に自分の姿を認めることが、「他人が見る自分、つまり他の主観に呈示される自分の姿」があるということを理解することでありながら、「他人の現前」が常に潜在的なものにとどまらざるを得ないのには、鏡に自分の姿を見ることそのものが他人の存在を示唆しながら隠蔽しているからである。
 
 というのも、鏡に映った自分の姿を見ること、つまりあり得べき他者の視線を認めることと他者の存在とが直接に結びつくことは決してないからである。鏡の中に映っている自分の姿を見ることは、なるほど、他人の眼には自分の姿がこのように映るのだということを教えてくれるが、そこには他人の存在はない。私と鏡に映った私とあり得べき他者の視線があるだけである。
 
 一方、鏡から離れ、他人と向き合っているとき、そこに他人の存在はあるが、他人の視線が捉える私の姿は私には見ることができない。他人はその視線か存在があるだけで、視線と存在とを備えた十全な形での他人が現れることは決してないのである。
 
 たとえ私と共に他人が鏡の前にたち、鏡に一緒に映ったとしても無駄なことだろう。鏡の中の私の姿を見る私の視線はあくまであり得べき他人の視線を潜在的に含んでいるに過ぎず、その視線が実際に私の隣に存在する他人の視線である保証などどこにもないからである。他人の視線は、現実には、鏡に自分の姿を映している私を見る視線であり、鏡の中の自分を見る視線はせいぜい可能的な他人の視線であるに過ぎないのである。
 
 従って、鏡に映る自分の姿を認めることのうちにある「他人の現前」とは二重にねじれていると言うことができる。
 
 第一に、他人の視線と他人の存在とが分裂していて、その両者が「他人」という一つの全体像で落ち合うことはない。
 
 第二には、他人の視線とはいっても、現実に鏡に映った自分の姿を見ているのは私の眼であり、そこに映る自分の姿はあり得べき他人の視線が捕らえるものであるかもしれないが、結局のところは自分の視線でしかない。
 
 ドッペンゲンゲルは丁度鏡像のもつ性質を反転させたものであり、鏡像を前にした幼児の「こおどり」するような喜びもまた無気味さや恐怖に裏返る。
 
 第一に、ドッペンゲンゲルでは、私の視線と私の存在が分裂している。もう一人の私の姿を捉える私の視線は確かに存在するが、その視線を有するこの身体が私の存在を保証してくれるわけではない。私の視線を信じるとすれば、私の存在は私の眼の前にいるもう一人の私にあるだろうし、眼の前の私に私の存在が確実になっていけばいくほど私の視線は根拠を失っていくことになるだろう。
 
 それゆえ、第二に、ドッペンゲンゲルでは、私はもう一人の私の前に立つことによって、他人の視線を獲得することができる。鏡像における他人の視線が私の視線のなかに含まれる潜在的なものであったとすれば、ドッペンゲンゲルにおけるもう一人の自分を見る視線とはそのうちに私の視線を潜在的に含む他人の視線なのである。
 
 ポオの『ウイリアム・ウィルソン』のように、分身が善と悪との抗争を代理する寓話的なものはともかく、ドッペンゲンゲルの引き起こす恐怖はもう一人の自分を見ることそのもののうちにある。であるから、もう一人の自分は多くの場合しゃべらないし、もし二人の私の間で会話が始まるとするなら、話は自我と超自我や自我と無意識をめぐる寓話的なものになってしまい、無気味さや恐怖は急速に薄れるだろう。