朱楽菅江、石川淳、平秩東作

 

文学大概 (1976年) (中公文庫)

文学大概 (1976年) (中公文庫)

 

 

 

怪談老の杖

怪談老の杖

 

 

 朱楽菅江は江戸中期の人、江戸生まれの幕臣で、大田南畝、唐衣橘洲とともに、いわゆる天明狂歌運動の主軸の一人である。向島の三回神社の境内に辞世の碑がある。いわく、

 

  執着の心は娑婆に残るらん吉野の桜更科の月

 

狂歌師であるのに、語呂合わせのひとつもないのが珍しいが、石川淳は『文学大概』のなかの「あけら菅江」という一編で、これを「文学者がおのれの最初の教養に復讐された例として見る。」と書いている。朱楽菅江は実際、最初は内山賀邸に本格的な歌を習っている。

 

 菅江は単に菅江と名乗っていたが、安永のころ、宿屋で皆で騒いでいるとき、行灯の紙に戯れに「我のみひとりあけら菅江」と書きそれから朱楽菅江を名乗るようになった。ちなみに菅江が「戯れに」そう書いたと記しているのは、大田南畝であり、この近しい二人を短い文章で、鮮やかな対照として配しているのが石川淳なのである。菅江の途方に暮れた顔は「身にしみるものだ。」と石川淳は述べている。

 

菅江は文化の中に於ける自分の位置について考えつつ、しかもそのことに自分で気がつかなかつたため茫然となつたのだらう。(中略)ひとびとが酒を飲んでゐる席上で、菅江は突然仲間からかけ離れ、眼前に花が散り月がかげらふところの茫然たる一瞬をもつたのであらう。たしかにそれは菅江のうつくしい夢であつたが、ただ菅江は自分の夢の始末を自分でつけるすべを知らなかつた。

 

 

 

 同じく大田南畝の仲間、というよりはもともと平賀源内の友人であるから、大田南畝より二回りほど年長の大先輩といった方がいいが、平秩東作(へづつとうさくと読む)が『怪談老の杖』という著作を残している。文字通りの怪談集。

 

 小幡一学という浪人がいた。学問があり、武術を究め、人柄もよかった。あるとき、用足しで日が暮れようとするころ、麹町一丁目のお堀端を歩いていると、強い雨が降ってきたので、傘をさし、腕まくりをして、急ぎ足になって帰りを急いでいた。すると十ばかりの子供が、笠もつけず、先方を歩いていた。不憫に思って、この傘にはいれ、と呼びかけたが、恥ずかしいのか、挨拶もしないで、しくしくと泣くように歩いている。いっそう不憫になり、後ろから傘をさしかけ、脇の方に引き寄せ、おまえはどこに使いに行っていたんだ、突然雨が降り出したので困ったろう、幾つになる、などと親身になって聞いたが、答えもしないで、どうかすると傘から外に出てしまいそうになる。仕方のない小僧だな、ぬれるから傘のなかにはいれはいれ、というとまたはいってくる。この傘の先を持って歩け、そうすればいくらか濡れないだろう、と我が子をいたわるように並んでいたが、堀の端にくると、突然浪人の腰をしっかりとつかみ、無二無三に堀のなかに引きずり込もうとする。子供とは思えぬほど力が強く、ぬかるんだ土手を川端まで引きずられていったが、力一杯突き放すと、傘とともに川のなかに沈んでいった。

 

 和推という俳諧師がいた。あるとき、誘われて吉原に行った。夜が更けて厠に立ったが、ひどく酔っ払っていて、足がふらふらしている。とにかく用を足そうと穴を踏みまたぐと、なにかが目の前をよぎったような気がして、よく見てみると、女の首がある。ぎょっとしたが、不適な法師だったので、少しも騒がず、そっと外へ出て、脇からのぞいてみると、その首が振り返ってにやにや笑った。手を伸ばし髪をつかんで引っ張ってみると、首だけではなく五体そろった、紅鹿の子の小袖を着た女で、ひっぱりあげると糞尿まみれで出てきた。