恐怖の根源としての顔ーー内田百閒『旅順入城式』

 

冥途・旅順入城式 (岩波文庫)

冥途・旅順入城式 (岩波文庫)

 

 

 『旅順入城式』に収められた「山高帽子」は、漱石門の仲間であった芥川龍之介が自殺するまでの交友関係を描いたものだが、単なる回想に止まることなく、百閒独特の短編小説になっている。

 

 なにより、この短編は、百閒自身をあらわすらしい青地と芥川をあらわすらしい野口との友誼に満ちた交際の話であるよりも、互いの存在を怖がる冗談のようなやり取りが、やがて本気との見境をつけることができなくなる方向に進み、お互いに相手の不安を増幅しあう話なのである。そして、「山高帽子」で、不安の増幅器となっているのは顔である。


 冒頭近く、勤め先の学校にいる「私」は、同僚の顔が段々きたくなるように思う。「偶然向かい合せに坐っている相手の顔をつくづく見ていると、どう云うわけでこんな顔なのだろうと思い、急に吹き出したくなる事が あった」ことから始まり、別の同僚との、互いの顔が長い、広いという言い争いまでは、妙な所に眼をつけてしつこく繰り返す子供っぽさのあらわれとでも言えるかもしれない。

 

 だが、近所のおばさんの顔を大きな狐の顔と見違えて狂気に陥った従兄の細君の話を「私」に聞いた野口が、「いやだなあ、僕の顔が何かに見えやしないか。君の顔も、見ている内に、段段何かに変わりそうだぜ」と言うあたりから、顔というものが恐れと不安を掻き立てるものになっていく。

 

 野口は、金銭上のトラブルから、しばらく行方をくらましていた「私」が帰ってきたのを見て、「気をつけたまえよ、君の顔は丸で変わっている。行方不明になった前とは別人の様だぜ。第一その太り方ってないよ」と言い、また、「私」の山高帽子をかぶった姿を「君があの帽子をかぶると怖いよ。ああいうものを見ると毒だね」と恐れる。一方、「私」のほうも、野口の自宅を訪れたときにその顔を見てびっくりする。「もともと痩せた顔が一層細くなり骨立って、額にかぶった髪の毛には色も光沢もなかった。しかしそれよりも不思議な事には、どことなく顔の輪郭が二重になっているような感じ」がする。


 顔は、百閒の文章にあらわれる風景にとっては必要のない他者が、もっとも先鋭な形で現れる場所である。一つには、山や川でできた不動の風景とは異なり、見ている内に「段段何かに変わりそう」であり、不確かな輪郭しかもたない点で、流動的な人間の不愉快な性質を典型的にあらわしている。この不愉快な性格は、人間の身体の盲目的な運動につながるものであって、「山高帽子」のなかで、手について述べられている部分に明瞭である。

 

手が何故動くかと云うことも、考え様では不思議な話だ。又そう思って見れば、人間の手ぐらい目まぐるしいものはない。朝から晩まで、動き通しにちらくら動いている。おまけに尖が各五本の指に裂けて、その又一本づつが、めいめい勝手な風に曲がったり、からまったり、不思議な運動を続けている。しかも大概の場合、本人はそんな事に気づかないから、手や指は本人の意識と無関係に、ぴくぴくはねたり、うねくね曲がったりしているのだ。不思議でもあり又無気味でもある。

 

 つまり、恐ろしさや不安を引き起こすのは、顔が、その人間の意識にある何かを伝えているからではなく、意識に関係なく「ぴくぴくはねたり、うねくね曲がったり」する不定形な、意味のない塊であり、百閒の風景とは別の原理で動いているからである。


 より根本的なのは、しかし、そうかといって、単に風景から他者を排除することによっては、顔の呪縛から逃れることができないということである。

 

顔と云うものは、もともと自分の所有には相違ないけれども、背中と同じく、自分で見ることは出来ないものである。是非見ようとするには、鏡の如き装置を要する。本来は自分で見るものではなくて、他人に見せる目印なのである。そのために、顔はいつでも相手の方に向けているのである。
                (「髭」  『百鬼園随筆』所収)

 

 つまり、他人の顔を排除してみたところで、私の顔が常に他者を呼び寄せようとしている。他ならぬ自分自身の顔にある他者への呼びかけが百閒の風景に危機をもたらすのである。