冷やというオブジェ――桂文楽『夢の酒』

 

NHK落語名人選 八代目 桂文楽 つるつる・夢の酒

NHK落語名人選 八代目 桂文楽 つるつる・夢の酒

 

  ニーチェは夢こそが形而上学を生みだしたのだと言った。それだけではない。魂と身体の分裂も夢が原因と考えるべきだ。実際、夢さえなければ、魂と身体は原則としていつも行動をともにしているわけであり、魂がひょいといなくなっても、黙って出て行ったり、長い間留守をすることには生活上無理があるので、痛くもない腹があるはずもない。


 とはいえ、中国の邯鄲の夢などでは、まだ世にでて間もないような若者が、偉い役人としての栄耀栄華から逆賊としての汚名まで、およそ考えられる限りの浮沈を夢に見たところで目が覚めて、翻然と悟るところがあって道士になってしまう。もしそれが夢を見た結果なのだとしたら、自分が経験もしていないことを早わかりに了解されて妙な修行につきあわされる身体の方が割を食ったことになろう。


 もっともこの邯鄲の夢にしろ、自分にそっくりの少年がいると聞いた宝玉が、自分の家の花園にそっくりな花園を通り、そっくりな部屋に入るとそっくりな少年が寝ており、しかもまたそっくりな相手の少年もまったく同じような夢を見ている(しかし、彼の方は長安の宝玉の家に来ている)、といったどちらがどちらの夢にいるのかもわからない『紅楼夢』のエピソードなどを見ると、むしろ夢と現実とが互いを呑みこむべく覇を争っているようなところが中国の夢にはあって、そうなるともはや魂と身体の区別などそれほどたいした問題とは言えなくなる。


 落語には夢の話が思いのほか少ない。『芝浜』は夢でもないものを夢だと言いくるめられてしまう噺だし、『夢金』なども、こと夢と現実との緊張関係からだけこれを見れば、たわいもない噺である。ある程度よく演じられている「大きな」噺のなかで夢が大きな役割を演じるのは苦労して築き上げた身代が一晩の火事で灰になり、やり直そうとして娘を吉原に売った金は掏られて、絶望して首をくくろうとするところで目を覚ます『鼠穴』があるが、夢でよかったという安堵感があるばかりで夢と現実とが通底してしまう妙な手触りに欠けている。


 『夢の酒』はほとんど桂文楽しかしない小品だが(古い噺で、あまり連中がやりませんのでお耳新しいのではないかと文楽自身枕で述べている)夢の魅力があらわれている。向島で夕立に降られて軒下を借りていると、大黒屋の若旦那じゃありませんか、と若い女が出てくる。どうやら向こうはこちらを見知っているらしい。奥に通されて酒、肴のごちそうをされる。ところがいい雰囲気になったところで女房に起こされる。どんな夢を見ていたんです、と聞かれた若旦那は怒っちゃいけないよ、と話し始めるが、案の定泣くやら叫ぶやらの騒ぎになる。駆けつけた大旦那が話を聞いてみると、夢のことだとのこと。

 

 ばかばかしくなるが、向島に行って向こうの女に小言の一つも言ってくださいと嫁に泣きつかれて仕方なく横になって眠りに落ちる。向島に行くと大黒屋の大旦那が見えましたよ、と大旦那も奥に通されて女は酒の用意を女中に言いつけるが、あいにくなことに火を落としてしまってすぐに燗がつかない。女は冷やを勧めるが、以前しくじって以来冷やは飲まないことにしている、と大旦那。そんなことを言い合っているうちに嫁に起こされた。しかし、惜しいことをしたな、ご意見を言おうとしたところで私が起こしましたか、いや、冷やでもよかったんだ。


 何より魅力的なのは、冷やでもよかったというリアルな手触りである。クリストファー・ノーランの映画『インセプション』では、この世界が夢か現実か確かめるために各人が必ず携えて夢の世界に入らねばならない小さなオブジェが描かれている。ディカプリオの場合は小さな独楽で、冷やの酒というのはこの噺でちょうどそんな役割を果たしているようだ。もっともそれが夢の世界のしるしなのか、現実のしるしなのか、そこまではわからない。