権力者の腹ーー石川淳『虹』

 

 

 

 

 

 実業家であり莫大な資産をもっていると思われる『虹』の朽木が体現している価値観は最後の夜会での演説に明らかである。

 

ぼくの金庫はおよそひとが錯覚しえたかぎりの途方もなく莫大な財宝をもつていつもいつぱいだつた。すなはち、その中みはいつもみごとにからつぽだつた。それがぼくのおそるべき金力の明白すぎる秘密だ。といふのは、ひとの放埓な錯覚のあらんかぎりを、ぼくはぼくの無尽蔵の力の実体として、あくまでも濫用することができたからだ。現金を欲したときには、ぼくはほしいままにゼロのいくつもくつ附いた数字を紙きれに書きつければよかつた。すると、たちまちそれだけの現金がぼくの金庫の中にあつた。いや、ひとがその紙きれに信用といふ不思議なしろものをおまけにくつ附けて、現金以上にものをいはせてくれた。もちろん、ぼくは無際限にいい気になるといふ当然の権利をフルに行使した。すなはち、俗なことばでいへば、ぼくはひとの錯覚のキンタマをつかんではなさなかつた。これはひとからどれほどお礼をいはれてもいはれすぎるといふことはない。せつかくの錯覚を注文以上に実証して、人生観の幅をひろげてやるといふ恩恵をあたへたのは、このぼくだからね。

 

 自らは無一物でありながら中心にあって、周囲の人間やものを結びつけ引き離し、流通、回転させることが朽木の役割である。なにものをも滞らせるべきではないというのが朽木が体現する価値であり、石川淳のこの時期以後の小説における法である。そして、この法は、あくまでものを流通させ、消費することを促すものであり、その内実には関わらないものであるために、どんなに非道な犯罪的行為といえどもその他の行為にくらべその重みが変わることはない。


 したがって、石川淳の小説における最大の敵役、無法者とは、『鳴神』や『六道遊行』に出てくるような、見境なくなんでものみ込み、身体をどんどんふくれあがらせる黒幕の巨漢である。彼らは流通すべきものを身体にため込み、流れをそこでせき止めることにおいて悪であるのと同時に、ここでの口や胃というものが噛みくだき、蓄積することによってあらゆるものを物質に変換してしまう器官でしかないがゆえに悪なのである。

 

 そして、彼らはまさしく権力を象徴する。というのも、権力とは世界観をもたず、世界を物質の総和に変えてしまう仕掛のことだからである。「政治の食卓では、汽船も飛行機も、皿のリンゴのやうに、コップの水のやうに、これを食ひこれを飲んで、それらをしてここに出現せしめるに至つた精神の努力の筋道は、パン屑を払ひおとすやうに、拭巾でふいてしまつても事務上さしつかへない。」(権力について『夷齋筆談』所収)結局、彼らは物質を精神に変換することも、次々にあらわれるものを消費流通させることもできないために、物質を集積する自らの能力に裏切られるように、物質の容量に堪えられず、ふくらんだ腹を破裂させてしまう。


 朽木は絨毯屋の小助に「悪党。きみはからつぽの観念をもつて、他人をたぶらかすばかりでなく、自分をもめちやくちやにしてしまふのだ。君の手妻のたねはたかが観念ではないか」と非難されるが、「さう。観念の中にはかならず人間が生きてゐますよ」と、昂然と言い返す。無一物でありながら、周囲の人やものを回転させる朽木的な存在は、こうした物質の無作為な蓄積に対抗する精神の謂いなのである。

 

 朽木のすることは、もっぱら言葉によって、周囲の人間をあるときは叱咤し、あるときは挑発し、あるときは糾弾するといったことによって彼らが安定し、固定的だと思っているものを解きほぐし、流動化することにある。つまり、朽木的な存在は俳諧化の精神、固定を嫌う精神のエネルギーを象徴し、ほとんど浮遊する言葉だけの存在で、肉体的な存在感を感じられない。

 

 更に言えば、この朽木的存在に刺激を受けたり抵抗したりする周辺の人物たちも、その考えは異なっていたり対立したりしているものの、その言葉は石川淳の発明になる断定的な独特の言い回しで、朽木と同じ種類の言葉を使っている。どんなに激しく言い争っていても、その言葉がそろって独特の調子をもった同じ種類の言葉なので、その対立は対立のまま流通してしまう。言葉を交わしただけでは埋められない溝や言葉の届かない肉体の現前などが顧みられることはない。


 また、石川淳の小説では、舞台になっている場所の現実味を増すために細かな描写が行われることはないし、固有名をもったものやものにまつわるそれらしい情報が提示されることもない。つまり、小説が小説の外部にあるものに頼って本当らしさをだす必要は認められない。小説は、言葉だけで自律的につくり上げられるべきものなのである。


 「人間は運動するものであり、運動は造型すべからざるものである。実在の人間といふ観念がことばのはたらきに於てはじめて固定されて来るといふのは、右の認識が把握されたといふことである。それはことばをもつて人間なり林檎なりの像を絵様に描いてみせるといふ芸当のことではない。われわれはもう小説から造型といふかんがへを抛棄してもよい時分である」(面貌について『夷齋筆談』)と石川淳は書く。この石川淳的な「実在の人間」とは、肉体の偶然性、周囲にある事物の具体性につまずくことのない精神を意味と考えられる。