風景の亀裂ーー内田百閒「映像」(『旅順入城式』所収)
『旅順入城式』の短篇「映像」は、存在をもった分身の恐怖を余すところなく描いている。「私」は昼間からの大風がぴたりと止んだ「何の物音も聞こえない」静かな晩、障子の切り込み硝子の向こうから私の顔が私を覗いていることに気づく。二度目には、私の顔は少しづつ動いているようである。
「私」は、その青ざめた顔が「昼間電機屋の飾窓に映った私の顔」であることに思い至り、「その時は気のつかなかった自分の顔が、夜中になって、私を覗きに来たのだ」と思うと、なににつけ自分の姿が映るものが恐ろしく感じられる。また、そのもう一人の自分が障子の内側に入り寝床に近づいてきたら、あるいは、口を利くようなことがあったらと考えると恐ろしさは高まるばかりである。
その後二晩続けてみた私の顔は、硝子から突然に姿を消し、どうも障子の陰にかがんだようにも思われるのである。そしてついに、始めてもう一人の私を見たときと同じような、昼からの大風がぱたりと止んだ晩、もう一人の私は障子を開けて私の方へ近づいてくる。
最後の部分はこうである。
開いた方の障子の陰から、私の蒼ざめた顔がはっきりと現われて、私の寝床の足許に上がった。そうして、次第に私の顔に近づいて来るらしい。私は声をたてようとしても、咽喉がつかえて、舌も動かなかった。私の蒼ざめた顔が腹の上に乗った。鳩尾のところを押さえた。仰向けになっている私の顔に近づいた。そうして、とうとう私の顔の上に私の顔が覗いた。まともに私の目を見入った。眼の中の赤い血の条まで見えた。何時までもそこに止まって動かなかった。私は身動きも出来ないからだを悶えながら、どうかして逃れようとした、――上から押さえつける様に覗いている私の顔が、今にも、今すぐにも、何か云い出しそうな口許をしている。 (「映像」)
「映像」が示しているのは、また、百閒の発見は、ここでのまったく映像的な分身が、他者を全く欠いているにもかかわらず、ナルシシズムのための装置としては働かないことにある。むしろ、私の分身こそが、他者を最も根源的な形で出現させる。というのも、実際の他者はどうにかして鏡の空間のなかで馴致することができるかもしれないし、最終的には、車窓から風景を眺めるときのように、ないものとして済ますことができるが、「他人に見せる目印」として私の顔に刻まれた他者性は拭い去ることができないからである。
つまり、硝子の空間での顔の恐ろしさが、顔の形式が崩れ、顔の実質だけが無軌道に溢れ出すことにあるなら、「映像」の顔の恐ろしさは、内容のない形式だけが迫ってくることにある。この顔は、他人との同意や共感などない、純粋な形式としての「他人に見せる目印」としてただひたすら近づいてくる。
この分身の恐ろしさは、全く「映像」の恐ろしさであり、私の視線と私の存在とが分裂し、私が私中心に成立していた体系から、未知の視点へ、未知の体系に落ち込んでしまうことの恐怖である。硝子に映った分身では、百閒の風景とは異なった原理に不安を覚えるにしても、私の視線は安定している。だが、「映像」の、存在をもった分身では、分身を見る私の視線と分身である私の存在との曖昧な関係が、私の視線そのものをどこかに移行させてしまう。もう一人の私は「私」の反応などにはなんの関心も持たず、ひたすら「私」を「私」がもつ視点とは異なる視点に移行させようとする。
私は酒を注いだまま盃を前に置いて、煙草を吹かしていた。明るい電気が、膳の真上に輝いていた。私は一しきり煙草を吸った後、また盃を手に取ろうと思って、ふと盃の中を見ると、盃の底に上の電気が逆さまになって、美しく映っていた。それを見て、私ははっとする様な気がした。そうしてすぐに思い返した。何が恐ろしいのだか自分で解らなかった。考えて見れば、なんにも驚く事はなかった。ただ上にある電気が、も一つ下に見えると云う丈の事だった。けれども、それ丈のことが、私には面白くなかった。 (同右)
これは、この短篇の中ごろに「私」が体験する出来事だが、確かに、盃の中に電気が映っていることにはなにも驚くようなことはない。つまり、恐怖の源にあるのは、同じものが二つに分裂することではなく、私の背後にあるものが眼の前にあること、私の背後にあるものを見る視線の存在を認めることにあるのである。
より正確に言えば、私の視野においては捉えることのできない、私の死角を見ることのできるような視点に私を移行させる出来事を暗示しているためにこの経験は恐ろしいものになっている。こうした視点の移行は、『阿呆列車』で車窓から見るような山や川ならなる安定した百件の風景を根底から覆すかもしれないもっとも恐ろしい脅威を含んでいる。
『冥土』や『旅順入城式』には、怪物のような他者は登場しないが、分身に混入した他者のまなざしが、百閒の保持する風景を別の視点でもって解体しようとしている。不安に満ちた風景描写は、風景そのものが感じている不安なのである。そして、知らないと思っていた女が、実は昔見たことがある女であることや、いま歩いている道が昔通ったことのある道であること、自分の声が道連の声と同じであることに気がつくといった『冥土』での恐怖の瞬間は、単に過去にあったことを思い出しているのではなく、より強烈な、別の視点をもつもう一人の自分との出会いが含まれている。