ドン・ファンと陽根のエネルギーーー石川淳『霊薬十二神丹』
「人間は運動するものであり、運動は造型すべからざるものである。実在の人間といふ観念がことばのはたらきに於てはじめて固定されて来るといふのは、右の認識が把握されたといふことである。それはことばをもつて人間なり林檎なりの像を絵様に描いてみせるといふ芸当のことではない。われわれはもう小説から造型といふかんがへを抛棄してもよい時分である」(面貌について『夷齋筆談』)と石川淳は書く。この石川淳的な「実在の人間」とは、肉体の偶然性、周囲にある事物の具体性につまずくことのない精神を意味するものと考えていい。
こうしたことから、一見同種類の人間に見えはするのだが、『虹』の朽木久太のようにあらゆるものを流通させ、消費していく石川淳特有の人物と、女性という女性を誘惑しないではいられないドン・ファンのような、つまり、あらゆる障害、規範、倫理を乗り越えていく無反省で怪物的な人間との相違が明らかになる。
確かに、ドン・ファンも女性を快楽の具としてどんどん消費し、捨て去ることによって流通させているように見える。だが、大きな相違があって、それは、ドン・ファンが石川淳的な人間とはまったく逆に、精神につまずくことのない肉体である点にある。
石川淳の小説では多くの場合、多様な登場人物の間に交わされる言葉以外の事物、例えば、宗頼の放つ矢にしろ、朽木の乗り回す車にしろ、『鳴神』の「オヤヂ」の総入歯にしても、精神の隠喩であり、それぞれの精神をあらわすための口実なのだが、他方、ドン・ファンが他の人物と交わす言葉、ドン・ファン以外の人物がドン・ファンについて語る言葉はすべて物語や劇の上では実際には再現されないドン・ファンの肉体のなしてきた行為に向けられている。
ドン・ファンは充溢した存在であり、何人の女性と関係をもとうが、石像に語りかけられようが、地獄の業火に焼かれようが、なんら変わることはなく、己の敵たるべきもう一人の自分をもつこともない。ドン・ファンは反省を知らない、精神とは無縁のある強度としか言えない存在であり、キルケゴールが言うように、精神を備え肉体を備えた一個人というよりは自然に近いもの「誘惑に飽くことがなく、あるいは、風が突進し、海が波立ち、滝が高いところから落ちることを決して完了しないのと同様に、誘惑を完了することのない、デモーニッシュなもの」(『あれか、これか』浅井真男訳)であると言える。
『夷齋筆談』のなかの一編、「恋愛について」は、石川淳流のドン・ファン論になっている。だが、このドン・ファンは、恋愛において様々な陥穽を乗り越えながら精神を勝利に導くことができるもののことなのである。精神を待ちかまえている罠とは心情であり、生理であり、肉体である。つまり、一人の女性に恋着して離れられなくなるような心情であり、その心情と結託している生理であり肉体である。心情は目の前にあるものに対する思い、反応に基づいているために直接的で、生理や肉体に直結している。そして、心情は、まさにこうした直接的なものがつねに必要であるために安定を求めるのである。
ところが、精神は「すべての体内的なるものを、生理をも心情をも切断したところに顕現するもの」であるから、自然、孤立無援な戦いを強いられることになる。「精神が完全に肉体を支配するためには、おのれの手をもつてこれを殺すほかない」が、もちろん肉体の死は精神の死でもあるので完全な自己撞着に陥るわけである。だが、「肉体の内部にもまた分裂」があって、心情を裏切る部分がある。それが「倫理的に無法」であり、かならずしも目の前の対象に反応して心情に素直に従うものでもない「陽根のエネルギー」である。
心情が一箇の女人にぞつこん打ちこむといふ仕打をして見せても、陽根エネルギーは必ずしも心情のおもむくところに集中しては行かない。情熱をみちびくものは精神である。精神の運動は波なのだから、蓋然的にしか一点にとどまらない。情熱もまた一物にのみ執着はしないだらう。情熱は過度でなくてはならぬとは、このことをいふ。恋愛生活では、それが精神に依つてつらぬかれるかぎり、そして肉体がそこにくたばらないかぎり、情熱の過度はどうしても女人遍歴といふ形式をとらざることをえず、したがつて、有為の男子はどうしてもドン・ファンたらざることをえない。ドン・ファンのエネルギーは女人遍歴に於て集中するがゆゑに、箇箇の女人について散乱することがないのだらう。ドン・ファンは必ずしも箇箇の女人に心情をかたむけないといふわけではない。ただその心情切断の操作がはなはだ速いために、愛撫はむしろ冷酷としか見えず、またそれゆゑに情熱はつねに新鮮であることができる。この情熱はあとに毫末の未練ものこらないまでに、一箇の女人を一瞬に愛しつくして、すべての女人に完全なる満足しかあたへないだらう。
「有為の男子」とドン・ファンとの差は速度の差であって、質の差ではない。どちらも恋愛においては心情に支配される。この石川淳のドン・ファンは人間的であって、むしろキルケゴールの言う「ギリシャ的愛」のもち主であると言える。伝説によれば、ヘラクレスは五十人の娘を一夜のうちにものにしたというが、それはヘラクレスの個性のあらわれを示すエピソードでしかない。
同じように、「有為の男子」とドン・ファンとの差が程度の差でしかないなら、ドン・ファンがより多数の女性を遍歴するのはドン・ファンという個人がもつ偶然的な事情に過ぎないことになる。また、ドン・ファンといえど恋愛においては心情に支配されるなら、その愛は「本質的に貞節」であって、「彼が新しい女を愛するのはやはりいつもなにか偶然的」で、「一人の女を愛しているあいだは次の女のことは考えない」(キルケゴール)ということになろう。
キルケゴールによれば、ドン・ファンの怪物的で「デモーニッシュ」なところは、彼が「根底から誘惑者である」ことにある。「彼の愛は心的ではなく、感性的であって、感性的な愛はその概念にしたがって貞節ではなく、絶対的に不貞であり、一人の女を愛さずにすべての女を愛する」のである。
ところで、「感性的」で「絶対的に不貞」なものがあり得るとしたら、まさしく石川淳の言う「倫理的に無法」である「陽根」こそそうであるべきだろう。確かに、「陽根」は状況によって役に立ったり立たなかったりするある種デリケートなものなのだが、それは心的なもの、心情的なものの介入によってそうであるに過ぎない。勃起した「陽根」そのものは心情を欠いた「デモーニッシュ」なものと言える。
だが、石川淳的なドン・ファンにとって「陽根」はあくまでも心情を切断するもの、状況を別な場面に転換するために必要なのであって、それが別の女性へと向かうかどうかについても偶然的でしかない。「陽根の運動はかならず倫理的に無法でなくてはならない。それゆゑに、恋愛といふ肉体の操作はただちに精神の場に乗りこむことができる」と石川淳は書くが、結局のところ、「陽根」もまた精神の別義であり、宗頼の矢や朽木の車のように精神を象徴するものである。
このことは、石川淳にとって、「陽根」があくまで一瞬の切断のためのものであり、それ以上のこと、持続的な勃起による肉体的な充溢などには向かわないことによってもうかがい知ることができる。
『霊薬十二神丹』という短編は「わたし」がまだ書生の頃、米沢で聞いた十二神丹という丸薬にまつわる口碑を、いまはおぼろげになった記憶をたどりながら書くという体裁になっているが、石川淳にとっての「陽根」の有り様を典型的にあらわしているように思える。
上杉景勝の家来二人が温泉の湯殿で諍いになり、刀が振られ助次郎の男根が切り落とされる。しかし、助次郎の弟は神医として知られている道人の弟子であって、神丹によって切られた男根をつなぎ合わせることができる。このつながれた男根には元と違うところが二つあった。
その一は、平常のありさまでは、元よりもあはれに小さく縮まつてゐた。その二は、事にあたり物に感じたをりには、たちまちぐつと伸びふとつて、その大きさは元の三倍にもまさつた。そしてそれに応じて、熱は総身に駆けめぐつて、あるともおぼえぬほどの非常の力を発した。このときもし手に刀槍をもたせたとすれば、よくこれに敵するものはゐないはずであつた。ただし、かういふとき、助次郎は立つてゐることに堪へなかつた。おのれの力に押しつぶされたかたちで、助次郎はしぜん腰をおとし、ゐざりのやうに地にうづくまる姿勢をとつて、目さへあげられず、力の発しうるかぎりをみづから見とどけることができなかつた。
この神丹は道にかなったものが用いれば「体内のやまひ外皮の傷のごときはいふにたらず、こころをむなしくして、身を天地にひとしくすること」もできるという、ものをその本来の働きに返す薬と言えよう。つまり、男根の本来の働きとは、「事にあたり物に感じたをり」に、十分な充溢によって状況を切断するべきものである。しかし、その充溢の持続は精神を身体に釘づけにし、盲目の裡に閉じこめ、身体はそのごく狭い範囲においては強烈な力を発揮するものの、精神の力が奪われた身体ではその力がどれほどのものかさえ自らは知ることができないのである。