唯物論と純愛ーー山田風太郎『甲賀忍法帖』
奇想天外なアイデアを盛り込んだ山田風太郎の忍法帖諸作は、史実に関しては忠実である。超人的な能力をもつ忍者たちが跋扈するにもかかわらず、歴史は決して改変されない。
別の言いかたをすると、あれほど奔放な想像力を駆使しながら、風太郎は歴史改変には手をつけなかった。史実として残っているものはそれを尊重し、場面をぴっちりと設定した上で、おもむろに想像力を駆動しはじめるのである。山田風太郎の影響を受けたものは枚挙に暇がないが、史実を重んじるというこの基本原則を踏襲するものはあまり思い浮かばない。
『甲賀忍法帖』は、慶長十九年四月、駿河城に徳川家康以下重臣たちが、集まることからはじまる。同年大坂冬の陣が起きる直前のことであり、豊臣方に巨大な鐘を鋳造させ、そこに刻まれた「国家安康、君臣豊楽」を、豊臣が家康を調伏するという意味だと、言いがかりをつけて、戦いを起こそうということが、重臣たちとの話し合いのなかですでに決まっている。戦いには勝つであろうが、既に七十三歳になった家康の心中には肉体の衰えから来る焦りが渦巻いていた。
豊臣との戦いには勝つ成算は十分にあったが、城を落とすまでどれだけ時間がかかるかというとはっきりとした見積もりができない。既に将軍の位は秀忠に譲っていたが、秀忠の長子竹千代と次子国千代のどちらを三代将軍につけるべきか迷っていたのである。長子の竹千代は端から見るとうすぼんやりしていて、国千代は愛らしさ、利発さにおいて勝っているように思われる。
秀忠とその御台所が次子の国千代をよりかわいがり、一方、竹千代の方には、後に春日局として権勢を振るうことになる阿福が乳母について、長子としての権利を主張して譲らず、徳川家内部がほぼ真っ二つに二分されていた。
家康は、戦国時代を生き抜いてきただけあって、跡目相続のもめ事が一族を没落させる事例を数々その目で見てきた。そこで自分より遙かに凡庸である秀忠に任せるわけにもいかず、命のあるうちに自分が決定しなければならないと考えていた。
これだけの場面設定をした上で、自由な空間を与えられたあとは山田風太郎の独擅場であり、三代将軍をどちらにするか、甲賀忍者と伊賀忍者それぞれの十人を選抜し、甲賀忍者が国千代を、伊賀忍者が竹千代を代表して戦うことが命じられる。選抜された二十人の名前を書いた巻物を二つ用意し、死んでいったものを消去していき、最後まで生き残り、巻物を駿河城まで届けたものが勝者となる。
イギリス経験論は人間を諸感覚の束だとしたが、風太郎の忍者はむしろ生理現象全般にわたる束であり、そこには人間とそれ以外の生物との境界線はなく、セックスの際の恍惚感によって毒を発する女忍者は、交尾のクライマックスで雄を食い殺す昆虫に例えられ、なめくじそのものに変貌し、海に突き落とされて最期を遂げる忍者もいる。
ここにあるのは、現実を解体し、夢や幻想を包含するより高次な現実を再構成しようとした超現実主義に対応する生命に関わる現象をすべて包含するような人間像を提示する超自然主義ともいえるもので、このことは端的に忍者の名前にあらわれている。
甲賀組十人衆。甲賀弾正、鵜殿丈助、甲賀弦之介、如月左衛門、地虫十兵衛、室賀豹馬、風待将監、陽炎、霞刑部、お胡夷。
伊賀組十人衆。お幻、雨夜陣五郎、朧、筑摩小四郎、夜叉丸、蓑念鬼、小豆蠟斎、薬師寺天膳、朱絹。
通常のいかにもありそうな名前から、動物や昆虫、自然現象を縦断している。その究極的な姿は伊賀忍者の、どれだけ殺しても蘇ってくる薬師寺天膳にあらわれており、その生理は次のように説明されている。
蟹の鋏はもがれてもまた生じ、とかげの尾はきれてもまたはえる。みみずは両断されてもふたたび原形に復帰し、ヒドラは裁断されても、その断片の一つずつがそれぞれ一匹のヒドラになる。ーー下等動物にはしばしば見られるこの再生現象は、人間にも部分的にはみられる。表皮、毛髪、子宮、腸、その他の粘膜、血球などがそうで、とくに胎児時代はきわめて強い再生力をもっている。
部分的であろうが、ひとたび生理現象として人間に認められるものであるなら、人間は下等動物と同じ平面に立つのであり、超自然的に再構成される。超自然的というのは、いわゆる超自然的といったときに連想されるような霊的な事柄を意味するのではなく、むしろすべてが生理的なものに還元されるような唯物論的な試みなのである。
風太郎が面白いのは、その一方で、純情ともいえる愛情が非情な戦いに常に寄り添っていることにある。『甲賀忍法帖』では、甲賀と伊賀の長年の確執を解消すべく、それぞれ次の頭領になるもの同士がロミオとジュリエットさながら、愛しあっている。史実に忠実な風太郎のことを考えれば、竹千代を代表する伊賀の忍者が勝ったことは明らかなのだが、実際に勝ったのは甲賀であり、『甲賀忍法帖』と題されているのも、まさにこの純愛のためなのである。