『キルケゴールとアンデルセン』とその分身ーー室井光広『キルケゴールとアンデルセン』
キルケゴールと違和感なく結びつく名前というのであれば、たちどころにその幾人かをあげることができる。思想家には、別の名前を容易に引きつける者とそうでない者がいる。カントやヘーゲルは、その影響力の大きさはキルケゴールに勝るとも劣らないが、キルケゴールのように多様な名前を引き寄せることはないだろう。例えば、キリスト教の関係ではアウグスティヌスやルターが、実存主義ではハイデガーやサルトル、単独者あるいは独身者ということではニーチェやカフカが引き合いにだされ、比較されることは、キルケゴールにあってはなんの違和感も感じられることはない。
だが、違和感を感じないからといって、そうした文章を読みたいかといえばそんなことはない。こうした「比較研究」がおおむね退屈なものであるのは、その比較というのが、キルケゴールによって誰彼を説明し、誰彼によってキルケゴールを説明することであり、結局、キルケゴールには誰彼的な所があり、誰彼にはキルケゴール的な所があるのを確認することでしかないからである。せっかくキルケゴールというオリジナルがいるのだから、キルケゴール的な誰彼という半熟な写しを与えられるには及ばない。
この本は、そうした悪弊にだけは染まるまいという意志によって貫かれている。キルケゴールはアンデルセンによって説明されず、アンデルセンがキルケゴールによって解説されることもない。両者は「拮抗」することをやめない異質なものであり、二人の「『間』という絶対的相違それ自体のスキマにもぐり込むことがこの私の一日一日の生命を延ばしてくれる『転回点』だと実感し、障害物としての隔壁がそのまま出会いと対話を可能にする『縁』の橋となる」という確信がこの本を支えている。実際、ルターやニーチェならともかく、アンデルセンというかなり異質な名前が結びつけられているのだから、もう少し互いが互いを説明することがあってもよいだろうに、という思いを誘われるほどこのことは徹底している。
キルケゴールについての論者が、つい、キルケゴールに様々な名前を引き寄せてしまうのは、彼が、美学、倫理、宗教のそれぞれについて多様な著作をあらわしたことにもよるが、より本質的なのは、彼の著作が常に特定の名前に向けられていたことにある。それは、モーツアルトのようにオマージュの対象であることもあるし、ソクラテスのように敬愛の念を抱きながらも乗り越えなければならない対象であることもある。漫画入り週間風刺新聞の「コルサール」や国教会のように断固とした闘争の相手であることもあり、勿論、「命がけの飛躍」によってもその姿が垣間見えるに過ぎないイエス・キリストやアブラハムが最大にして最も困難な相手だと言える。
この本が試みているのは、従来袖すり合うほどの関係しかもっていないと考えられていたキルケゴールとアンデルセンの間に、生涯拮抗を続けるだけの深い関係を想定することにある。キルケゴールにとってアンデルセンは、モーツアルトやソクラテスと同じ様に全身全霊を傾けるべき格闘相手であり、アンデルセンもそれに答えたというのがこの本の魅力的な仮説である。
「アンデルセンについて書かれた世界最初の本は、キルケゴールが書いた最初の本であった」ことの驚きからこの本はできあがっているが、両者の交友の証拠となる記録は実に少ない。「若き日のキルケゴールとアンデルセンが同じ文学サークルを母胎とする神聖同盟なるグループのメンバーを構成していた事実」が知られているが、それが知られていることの全てであると言っていい。しかしそんなことは室井光広にとってはなんでもない。「問題なのは外面的な事実関係にあらわれぬ性質の共感的反感と反感的共感というアンビヴァレントな感情がつくりだした友情の特異さ以外のものではない」からである。
では、二人の「共感的反感と反感的共感」をどこに見出すのか。二人の文章、あるいはむしろ、二人のデンマーク語のなかにである。アンデルセンの「えんどう豆の上のお姫さま」とキルケゴールの『おそれとおののき』とはまったく同じ言葉で始まっている。「みにくいアヒルの子」の出だしの言葉、「だって、夏でしたもの!」は『あれか、これか』のヒレレズの「ロマンティックな場所」にぴったりではないか。『即興詩人』を読んだキルケゴールが注の部分一カ所にしか興味深い所はなかったと日誌に書き留めたこと、等々、二人の片言隻語を「往復」することで二人の共感と反感が追跡される。「序文ばかりを書こうとしている内実を思えば『成熟した内容のヤマ場はこれからあとにくる』ともいえない。山が無いデンマークの野や森にも似た場所を飽きもせず感嘆しながら歩きつづけるわれわれはマツユキソウの姿に文学の神に仕える者の化身をみる」という言葉に作者の自負があらわれている。
従って、キルケゴール思想の全体像や、アンデルセンが童話という文学形式に新たにもたらしたものは何か、あるいは、二人はデンマーク文学のなかでどのような位置を占めているのかといった「ヤマ場」を期待する者には、この本は失望しかもたらさないだろう。「アルファベットおたく」を自認する著者がデンマーク語のなかを「飽きもせず感嘆しながら歩きつづける」ことがこの本を成り立たせており、時にキルケゴールもアンデルセンもデンマーク語に触れるためのアリバイに過ぎないのではないかと思わせる程である。
事実、この一見奇抜な二人の組み合わせは、両者が日本で最も有名なデンマークの作家であり、しかも我々がデンマークの文学ということで思い出すほとんど全てだということを考えると、ごく自然なものだと言える。『キルケゴールとアンデルセン』は分身をもっており、より内容に即した題は『「キルケゴールとアンデルセン」と「室井光広とデンマーク語」』ということになるだろう。