『小説教室』を読んでもなかなか小説を書き上げるにはいかない理由ーー高橋源一郎『一億三千万人のための小説教室』

 

一億三千万人のための小説教室 (岩波新書 新赤版 (786))

一億三千万人のための小説教室 (岩波新書 新赤版 (786))

 

①なにもはじまっていないこと、小説がまだ書かれていないことをじっくり楽しもう
②小説の、最初の一行は、できるだけ我慢して、遅くはじめなければならない
③待っている間、小説とは、ぜんぜん関係ないことを、考えてみよう
④小説を書く前に、クジラに足がなん本あるか調べてみよう


 高橋源一郎の言う小説を書くための鍵の最初の四項目をあげてみる。これだけあげたって、どんな流れで言われているのかわからなければ、それが小説を書くのにどうつながるのか理解できない、と思われるかもしれない。

 

 だが、心配はいらない。「少し長いまえがき」から本文を順々に読み進めていったとしても、やはり、小説を書くこととどうつながるのかはよくわからないからである。もちろん、書かれている言葉はやさしく、意味はわかりやすい。だが、そこで読みとれることと小説を書くこととの距離がなかなか測りがたい。この本は、そのノンシャランな語り口とは裏腹に、とりあえず書き始めてみよう、といったたぐいの実践性とは程遠く、むしろ書くことを抑圧する。


⑥小説を書くためには、「バカ」でなければならない
⑩世界を、まったくちがうように見る、あるいは、世界が、まったくちがうように見えるまで、待つ


 「小説の書き方」や「小説家になる方法」といった一般的な小説教室で、ある程度良心的なものならば、わかりやすい表現のための技術やプロットの組み立て方などを教えてくれる。しかし、それ以上のこと、その教えにしたがって書き上げたものが小説になるかどうかについてはあえて黙して語ろうとしないだろう。

 

 ヒトガタのつくり方についてはお教えしましょう、でもそれに魂を入れることができるかどうかはあなたの努力次第、もっとはっきり言えばあなたの才能次第です、というのがそうした小説教室の暗黙の前提だからである。ところが、この本は、ヒトガタは「小説のようなもの」に過ぎず、それを教えるのであれば「小説のようなものの書き方」「小説のようなものを書く者になる方法」ではないか、不当表示ではないかと言わんばかりに、ひたすら魂について語ることによって「小説教室」たらんとするのである。

 

 したがって、ここでは、文章をいかに洗練させていくかといったことや、緩急入り混じったどんな手管を使って読者を引っ張り回すかといった技術的なことについてはまったく触れられていない。世界を始めて経験するように経験することのできる「バカ」(「『バカ』は無知とはちがいます。無知はなにも知らないが、『バカ』は、自分がなんにも知らないことだけは、知っているのです。」)となること、「他の人とはちがった目で」、「徹底して見る」ことによって世界を異なった相貌のもとにとらえることができるよう魂の修練を促すのである。

 

 でも、このことは、小説を書きたいと思っている者を「小説のようなもの」から遠ざけることにはなるかもしれないが、小説を書くことに近づけるかどうかは疑わしい。この『小説教室』は、『一億三千万人のための』ものである。

 

 いわば、魂の基本体操についての本であるから万人に開かれているし、基本体操がその向こうにある目標とすべき対象と細い道でつながっていることは確かである。だが、基本体操を学ぶこととアスリートになることの間にはある飛躍があるに違いない。確かに、この本の入口は「小説のようなものの書き方」よりは敷居が低いかもしれないが、そのなかは上の段に登るための足がかりが見あたらない、のっぺりとした広漠たる地なのである。


⑪小説と、遊んでやる
⑫向こうから来たボールに対して、本能的にからだを動かせるようになる
⑯小説を、あかんぼうがははおやのしゃべることばをまねするようにまねる


 小説は、野球選手がボールをつかまえるようにつかまえるべきものである。球はいつも正面にゆるいスピードで飛んでくるとは限らない。「運動神経を鍛えるには、豪球を相手にしなければならない」のである。

 

 そこで、例えば、エーリヒ・ケストナー永沢光雄の『AV女優』が、武者小路実篤とAV監督バクシーシ山下の『セックス障害者たち』が併存することになる。どんな球でもというわりには、伝統や教養にどっぷり身を浸して書いていた谷崎潤一郎のような小説家や、壮大な結構をもった作品を書いたドストエフスキーのような人物、つまり「小説のようなもの」に魂を入れるすべを知っていた小説家の球、小説というフィールドの多分半分以上の領域で飛び交っている球は除外されている。

 

 それは、恐らく、この教室が小説の伝統のようなことになんの関心もない万人のために開かれているからだろう。それ故、この本のなかで飛び交っている球は、「小説のようなもの」のない小説の魂、視野の違いがもたらす「どこかおかしい」という感じ、「もう少しで小説になるなにか、まるで空中のチリみたいに、その周りに蒸気を凝結させて、雨粒になる、小説のもと」のようなものである。

 

 そして、これらをつかまえるとは世界を新たに経験することであるために、そこでなにかを学ぶとしたら赤ん坊のように母親のしゃべる言葉をまねるよりないわけである。

 

⑲小説は、写真の横に、マンガの横に、あらゆるところに、突然、生まれる

 


 小説の魂は、魂であるがゆえに身体の偶然的な特徴をもってはいない。この人種的相違をもたない魂は、この本で、写真の、マンガの、映画の、思想の魂と混じり合い、あらゆるところに、突然、生まれるものであるとされることで、言葉の魂としか言いようのないものにまで広がる。

 

 そして、『一億三千万人のための小説教室』にふさわしく、言葉の魂をこそとらえよ、といういっそ陳腐な教えに落ち着くのだが、この平明な教えが指し示す時間とは小説を書き始める前の「なにかがはじまるのを待つ緊張の時間」であって、やはりまだ小説を書き上げることからは遠いのである。