固有世界の戦い--荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』、ボルヘス『記憶の人、フネス』
戦闘場面の大きな変化によって『ジョジョの奇妙な冒険』は二つの部分に分けることができる。もはや読者にはいうまでもないだろうが、PART2までとそれ以降という具合にで、二つの部分を分けるのは、スタンドというものの発明にある。PART2までジョースター家の使っていた術は「波紋」と呼ばれるもので、いろいろな工夫がしてあるが、基本的には現在少年マンガの戦闘で当然のように使われている「気」の一変種と考えていいと思う。もっとも、気のように、なにもない空間を貫いて相手に発せられるのとは異なり、波紋を相手に伝えるための媒体が必要であるという制限が戦いの様相をずっと複雑にしている。
スタンドを言葉で説明するのは難しい。超能力の一種といっても間違いではないが、そう言ってしまうと、再び、空中を目に見られない形で飛びかう気のようなものになってしまう。荒木飛呂彦がスタンドの場合においても基本として押さえていることは、媒体を明示すること、力がどのように伝わって相手に届くかということにある。
スタンドとは、ある特殊化した能力をもつもう一人の自分である、と言えるだろう。実際、設定上は、スタンドはスタンド能力者にしか見ることができないことになっているが、スタンド能力者同士の戦いを描いたマンガであるから、当然スタンドは発動されるやその多くは人間の形をとり、装飾をこらしたサイボーグのようなものとして表現される。そして、例えば、二人が戦う場合、本体の人間とそれぞれのスタンドの計四体が戦闘に参加している者として描かれる。
スタンドという発明の大きな魅力は、登場人物の口から語られている。PART6で敵役であるプッチ神父が回想シーンでディオと会話を交わしており、こんなことを聞く。これまで出会ったスタンド能力のなかで一番弱い能力って、どんなヤツだい?、と。ディオはこう答える、「どんな者だろうと、人にはそれぞれその個性にあった適材適所がある。王には王の・・・・・・、料理人には料理人の・・・・・・、それが生きるという事だ。スタンドも同様、『強い』『弱い』の概念はない」と。この言葉にスタンドの魅力の多くが言われている。この設定があるために、『ジョジョの奇妙な冒険』では『ドラゴンボール』に典型的にあらわれているような強さのインフレーションが起こらない。
PART6で言うと、徐倫のスタンドは自分の身体を繊維状の塊として利用することができ、エルメェスは物を二つに分け再びそれを一つの物にできる、ウェザー・リポートは天候を操ることができ、プッチ神父は(能力が、進化することによってどんどん変わっていくが、その一つは)打撃を加えるとそこにかかっている重力を反転させそのものを裏返しにすることができる、等々がスタンドの能力である。
こうした様々な特殊能力者たちが戦いを繰り広げるところは山田風太郎の忍法帖を思わせるが、決定的な相違は、忍法帖では戦う忍者がほとんどの場合共倒れになってしまうのに対し、『ジョジョ』ではどちらかが生き残り、戦いの状況に合わせてスタンドの潜在的な能力が徐々に(読者と同時にスタンドを使う本人にとっても)あらわになることによって、異なった世界をもつ者同士の争いのようなものにまで発展していくことにある。
忍法帖では、忍者は戦う機械であり、彼らを影で操り情け容赦なく消費する黒幕こそ世界観をもっているかもしれないが、実際に戦う忍者にあるのは自分の命と引き替えに相手を倒すことだけで、戦いに勝つことによって開けてくる可能性はない。
例えば、徐倫のスタンドが繊維状の塊であることを我々読者はまず知らされるが、それから起こる数々の戦いのなかで繰り広げられるのは、この複雑な糸玉が様々な世界において(つまり敵であるスタンドの能力に対して)どのような働きをなし得るか、という思考実験の様相を呈してくる。
それは、相手を縛る、網状のものを作って捕らえる、傷を縫う、編んだ糸の上を走ることで水の上も移動できる、移動するものに結びつければその速さで動くことができる。糸を繰り出すことによって、引っかかりがあれば高いところへ登るのは自由だから、行動の空間が限りなく立体的になる。糸を縦横に張り巡らせば見ることのできない敵の位置を知ることもできる。プッチ神父のすべてを裏返しにしてしまう攻撃に対しては、身体を表も裏もないメビウスの輪で仕立て直すことによって防御する。
こうした可能性のひろがりが、スタンドの弱点、この糸は身体の一部であるから使う量には限界があり、繰り出せば出すほど身体の内部は空洞になり、生命を維持するのが困難になる、という制限のもと明らかになっていく。
言葉を変えて言えば、ある条件を科せられた身体を中心にするとどのように世界はつくりかえられていくか、ということが問題になっている。そう考えると、代々のシリーズの最後のボスのスタンドの多くが時間に関わるものであり、身体的な根拠のないことが象徴的に思われる。
PART3のディオは時間を止めることができ、PART4の吉良吉影は(そのスタンド能力の一つでは)自分に都合のよい状況になるまで時間をループ状に繰り返させることができる、PART5のギャングのボスは時間をとばすことが、PART6のプッチ神父は時間を無限に加速してこの宇宙をいったん終焉させ、人類をもう一つのパラレルワールドに導くことができる、という具合で、いずれの能力にしても、そういう能力なのだから仕方がないという風で、徐倫のスタンドのように論理的な発展を遂げることがない。ジョースター家の一員である承太郎も時間を止めることができるが、彼の場合、そのスタンドのスピードがあまりに早く正確なために時間が止まるのだという、論理的とは言えないまでも、身体感覚的にある程度説得力のある説明がなされている。そういう、こうであるしかない世界(スタンド)に未知の可能性を秘めた世界が打ち勝つというのが、『ジョジョ』の基本的なテーマのように思われる。
ところで、ある可能性を秘めた条件を与えられたときに世界がどのように変貌するか、というのは小説にもまた近しいテーマである。古くはカフカの『変身』や『断食芸人』や『巣穴』や『アカデミーの報告』などもそうした試みの一種と考えられるだろうし、ポオの短篇にも、アルフレッド・ジャリやアポリネールにもそうした要素が見受けられる。
しかし、スタンド的な、ある特殊能力の突出ということで言えば、ボルヘスの短篇にその最良の例を見いだすことができる。たとえば、『記憶の人、フネス』。ある人間にとてつもない記憶の能力が備わっているとき、彼の世界はどのようなものであるかが描かれる。
彼はあらゆる知覚を記憶してしまうために、「一八八二年四月三十日の夜明けの、南にただよう雲の形を知っていて、それを記憶のなかで、一度だけ見たスペインの革装の本の模様とくらべること」が、「ケブラチョの戦いの前夜、舟のオールでネグロ河で描いた波紋とくらべること」ができ、しかもその「視覚的映像のひとつひとつが筋肉や熱などの感覚と結びついて」いる。このあたりまでのことは、すべてを記憶してしまうのであれば、さもありなん、というところだが、次のようなことになると、記憶というものが全く新しい世界を開くことを感じずにはおれない。
その話によれば一八八六年ごろ、彼は独創的な計数法を思いつき、ほんの二、三日で二万四千を超えた。彼はそれを書きとめなかった。一度考えたことは、もはや消えることがなかったからである。最初に刺激となったのは、わたしの思うのに、「三十三人のウルグアイ人」が一個の単語と一個の記号ではなくて、二個の記号と三個の単語を必要とするという不快な事実であった。やがて彼は、この奇妙な原理を他の数にも適用した。七千十三のかわりに(たとえば)「マクシモ・ペレス」、七千十四人のかわりに「鉄道」といった。他の数は「ルイス・メリアン・ラフィヌル」、「オリマル」、「硫黄」、「楷棒」、「鯨」、「ガス」、「ボイラー」、「ナポレオン」、「アグスティン・デ=ペディア」となった。五百のかわりに、彼は「九」といった。それぞれの単語が特別の記号、一種のマークを持っていた。(鼓直訳)