幸田露伴を展開する 4

 

風流仏・一口剣 (岩波文庫)

風流仏・一口剣 (岩波文庫)

 

 

           4

 

 初期の露伴には、確かに仏教的な要素が色濃い。しかし、露伴が求めたものは、仏教が与えてくれるように思えるある境地である。それは、ある種の悟りかもしれないが、謡曲『邯鄲』でのように、最終的な解脱以外のあらゆる現実を夢と化していくような場ではない。

 

三味線には甲乙所と云ひ間拍子と云ひ、弓術剣術には機味とや云ふべき、商売にはかけひきとや云ふべき、俳諧には虚実といふか、いづれも大切のものなれど、習つて記えたばかりにてはこゝが分らず、此処の了るが即ち悟るなり。三味線には三味線の悟り、弓馬にも商売にも、各其大切の所は口や筆にて書ける如きものにあらず。若し万事記えたばかりにて役に立つなれば、何も彼も訳なしの世界、三味線は三日、弓馬刀槍・商売・文芸、すべて大抵三日か四日で出来べきなれど、早き話が鋸を持ち出して裏の竹薮に行き灰吹一ツ切らむとしても、堀津で売り居るもののやうには切り口が奇麗に行かず。然れば記えると悟るとは慥かに相違あり。手斧の使い方ばかりにても、足の親指を一度切らねば悟れぬとは大工の名言、記えることは記えても四年五年の修行の功をつみ、いつか知らぬ間に悟得するか、知つて悟るか、何れにしても悟つてからの自在はあるべし。

    (「般若心経第二義注」 明治二十三年)

 

 

 仏教的な悟りが与えてくれるように思える「自在」の境地は望ましいが、それを支えそこに導く仏教の教えは、特権的な重要性をもつものではなく、三味線、弓馬、商売の修行とさほど径庭のあるものではない。現実をひとくくりにして処断するのが仏教の悟りであれば、それは無風流な洒落に等しい。

 

 言い換えれば、現実を犠牲にするまでの信仰は露伴にはなかった。露伴の人物の発心や悟りが越えることのできない地平があり、それが、芭蕉が無媒介に交わっていた自然なのである。仏教は人間的な価値を相対化し、自然との交感をより容易にする手段としてある。人間的な価値の相対化は、人間界を見下ろす視点の獲得にあるのではなく、動物の世界への沈潜を用意するべきものなのである。

 

 したがって、発心や悟りは、生全体の意味を得ることよりは、より多く、生を盲目的な運動としてしまうことにある。『一口剣』や『五重塔』などの職人の命がけの仕事だけが、自然との無媒介な交わりを垣間見させてくれるように思える。発心とは、露伴にとって、まず、迷いを断ち切り、生の意味などというものが無意味になる技術の世界に没入することにある。職人が身体に染みついた技術をもって素材に向かうとき、鶴が鳴き、蜘蛛が蜘蛛の巣を作るときのような、自然そのものがする表現に近づくことになろう。

 

 だが、この職人の自然との無媒介な交わりは、常に文章の届かないところにある。『一口剣』や『五重塔』で描かれるのは、概ね、仕事に全精力をつぎ込むまでの逡巡であり、仕事を巡る人間の葛藤である。職人の全身全霊の仕事は、露伴がそれに倣うことを願うものである。しかし、小説はそれを外側から描写することしかできない。

 

・・・あはれ魂魄を金輪際生へ抜きの鉄砧と据え堅め、陽の槌には恩に酬わん陰の槌には義に背かじと、歯をくひしばつて力を籠め打ち、未練の思ひは横に切り目、卑怯の心は縦に切り目の鏨を入れ、折つては返し割つては合はせ、十五度鍛つて四を一に練りつゞめて、満身の熱血を地金と丸め、無垢の一念を刃金と乗せ、此腹中の猛火熾んに幾度か爍したて爍したてゝ結び付け、水打ち銑透し謹み/\油断なく、刃土を削つて扨其後こそ一期の大事の焼刃わたし、湯玉を跳らす誠の涙に唯願ひ奉るは神力の加護、仮令この身は即座に生命召さるゝとも露惜しからず、名利のために祈るにはあらざればあはれみたまえ神も仏も、かくて湯加減誤まりなく一刀成就するものならば、よもや世の中の欲に使はれ誉れを望みて打つ鍛冶が作には劣るまじ、・・・   (『一口剣』 明治二十三年)

 

 

 

 ここには確かに刀鍛冶の仕事が描かれているが、抽象的な印象を与えるに止まっている。「満身の熱血」や「無垢の一念」という定型化した熱情の元に、具体的な仕事の手順が埋没してしまっている。露伴にとって、職人が小手先の技術に拘泥しているときには自然との交感はない。生や死、善や悪といった価値基準がなくなり、技術がある人間の所有ではなく、人間そのものになったとき無媒介な交感がある。であるから、実は、命がけの仕事、「満身の熱血」や「無垢の一念」を込めた仕事を書くのは、職人の仕事の後づけの解釈でしかない。なにを賭けているのか、なにを込めているのかすらわからないのが露伴が求める仕事であるからである。

 

 職人の仕事に、露伴芭蕉に見出されるような交感の場を求めている。だが、言葉を重ねれば重ねるほど、本来の仕事は遠ざかり、露伴が繰り返し警告している小手先の仕事に近づいてしまう。言葉は仕事を総体で描くことができず、仕事の全体を表わそうとすれば、「満身の熱血」や「無垢の一念」といった紋切り型に頼るしかない。あとはただ仕事の手順を描写するだけであって、個々の手順だけでは小手先の仕事と全身全霊の仕事とを区別することができない。

 

 こうして、前期の露伴は、芭蕉に見出した自然との無媒介な交感を実現するために、小説に職人の仕事を持ち込んだ。確かに小説は所詮作り物だが、職人の仕事を小説で実現することに成功すれば、虚構という虚偽の自然から真の自然に抜け出すことができるだろう。しかし、小説の外の現実では真であるかもしれないものも、小説に取り入れられた途端に嘘になる。描かれた職人の悟りは実情から遠ざかり、描いた方はまさに対象をそのように描く視座に安住することで無風流に陥る。こうしたジレンマが露伴の小説に対する不信感を助長している。