幸田露伴を展開する 6
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坪内逍遙宛ての書簡で賞賛し、晩年には『七部集』と呼ばれる、芭蕉門弟たちの連句、発句を集めたものの評釈にかかり切りになったことからも、露伴の芭蕉に対する敬愛の念はほぼ生涯を一貫して変わらなかったと思われるのだが、以前から私にとって疑問に思われているのは、露伴が俳句という形式について、あるいは芭蕉以外の俳人についてどれほど関心をもっていたのか、ということなのである。
全集で残された露伴作の俳句は、四百句弱である。それとは別に、連句は五回催されている。いずれも死後に発表されたもので、先に引用した『地獄渓日記』の句など、作品中にあらわれた句も含まれている。それ以外にも、「職人尽」「僧十二ヶ月」「十二神獣」(干支の動物にちなんだもの)「寿量讃」(経文への讃)などいわゆる歳時記的ではないテーマにしたがって書かれたものも多い。
日付が明らかなのが半数ほどで、そのなかでは、明治二十年代の作が目立つ。もちろん、散逸したものがあることも想定できる。それにしても、俳人ではない文学者の俳句の数をどうとらえるかは難しい問題だが、およそ八十年の生涯のなかで、四百句というのは決して多いとはいえない。
露伴本人が句集をだすつもりなどはなかったことを考えても、もし一度でも俳句づくりに夢中になった時期があったとするなら、習作が残っていても不思議ではないし、そうした期間があったとすれば、たとえば冒頭の言葉を入れ替えた類似句などが残っていそうなものである。そして、そんな熱中の時期があったとすれば、四百句など、一日一句、一年ちょっと続ければできてしまう程度の数なのである。
私の目にとまった句をあげておく。
吹風の一筋見ゆる枯野かな
蛇ふんで残暑の汗ののつと出る
春霞国のへだてはなかりけり
貝殻も花で梅散る月の浜
薄い日のそろりと動く枯野かな
涼しさや脈鈴ひゞく水の闇
萩の露こぼさじと折るをんなかな
名月や舟を放てば空に入る
個人的に好きな三句をあげると、
「幸堂得知 初ゆめや獏が骨まで喰ふたり 我之に答へて」という前書きをつけて
初ゆめや富士で獏狩りしたりけり
あの先で修羅はころがれ雲の峯
老子霞み牛霞み流沙かすみけり
であろうか。
総じて、日常に関するもの、人事や行事に関するもの、恋愛に関するものが極端に少ないと言える。「萩の露こぼさじと折るをんなかな」は多少の艶っぽさを感じさせる、ほとんど唯一の句と言っていい。目につくのは、大きな一景であり、人情というよりは、歳時記でいうと天文に属する句が多い。町のなかで生活している個人としての人間の姿はなく、どこかから眺望している非人称性が際立っている。
こうしてみると、露伴が特に芭蕉を手本にして、俳句をつくった形跡は見受けられない。露伴の芭蕉への敬愛は、俳句の実作者としてのものではなかったように思われる。さらにまた、露伴が好んだ芭蕉というのは、「洒落散らし居たる」初期の芭蕉ではないが、そして晩年の「軽み」を旨とする芭蕉を否定しさるものではないが、むしろ李白、杜甫、白楽天などの漢詩や老荘思想を受けいれ、継承しようとした芭蕉、芭蕉が跋を書き、其角が編集した『虚栗』を頂点とする虚栗調、天和調といわれた時期から、歌仙『冬の日』や『春の日』が刊行され、連句において匂い、うつり、響きなどの付け方を体得した貞享年間までの中期の芭蕉にあるのではないか。