倒錯的な物の創造=破壊--『パットとマット』
『新八犬伝』や『三国志』はテレビで見ていたし、シュワンクマイエルは好きだが、イジー・トルンカ、『ぼくらと遊ぼう!』、『パットとマット』、『チェブラーシカ』などのチェコを中心にした人形劇をみると、その拡がりを感じることができる。こうした人形劇を見ていると、かつて安部公房が、盛んにミュージカルについて発言していたときに、ミュージカルは精巧な機械のようで、この機械をうまく使いこなしてみたいという思いを掻き立てる、というようなことを言っていたのを思い出す。もっとも、精巧な機械というよりは、こちらは使い道のよくわからない奇妙な機械と言った方がいいかもしれない。
こうした人形劇は、一コマ一コマ撮影するという目の眩むような労力によってできあがっている。それがテレビの『新八犬伝』のような人形劇や文楽などと決定的に異なる。例えば文楽では人形の後ろには人形使いの研鑽された芸があって、その人形の動き、形は「ただ人形使いの<運動に於てのみ形成される形>なのであって、静止し凝固した形象なのではない」(和辻哲郎「文楽座の人形芝居」)。文楽の人形は人間と人形との混合体として生動している。人形使いの芸によって人形に生気が浸透し、ある平衡に達したときに、人間とも人形ともいえない幻影的な動く像としての人間が生まれてくると言える。
一方、コマ撮りの人形劇はもっとも生命的な要素からかけ離れたところでつくられている。二重に生命から切り離されているといっていい。つまり、ある一コマを撮影するときには、その場面から人間の手は完全に引かれており、そこには細心の注意を払って人間の手が加えられた物はあるけれども、人間そのものはまったく不在である。また、時間の切断がある。普通に撮影されるのであれば、それがどんなに下手な人形の使い手による人形劇であっても、人形に伝わっている人間の有機的な動きを感じることができるだろう。しかし、すべての動きはコマのなかに封じ込められており、分割できない連続性はここには全くない。
あるコマと次のコマがつながる必然性は、作り手のなかにこそあるかもしれませんが、客観的な根拠はなにもないのである。こうしたことからだろうか、こうしたコマ撮りの人形劇には、文楽などよりもずっと魔的な、ゴーレムの製造を思わせるような雰囲気を感じてしまう(チェコなことでもあるし)。
特に印象的なのは、『パットとマット』である。卵形のほとんど同じ顔をした二体の人形がなんということもない、ごく日常的な仕事をしようとする。カーペットを洗おうとしたり、壁紙を張ろうとしたり、本棚や揺り椅子をつくろうとしたり、車を車庫に入れようとする。しかし、円滑に目的が達せられることはない。目的のためには手段を選ばない二人は、周囲のものを次々と壊しながら、本棚や揺り椅子といえばそう見ることができなくもないような、それがまだ車と車庫だと言えるなら車庫に車が入っていると思えなくもない奇妙なオブジェの前で満足をあらわす快哉のポーズを決める。
マルクス兄弟が汽車を壊しながらそれを汽車を動かすための燃料にするシーンを思わせるが、あちらは人間的なエネルギーの集中と発散が感じられるのに対し、『パットとマット』では決して高揚も消沈もしない無表情な物が物を壊し、実用には適さない無用の物を作りだす、というかなり倒錯的な場面において、物(つまり、人間の役をしている人形ではない物そのものの)が動いている実感を時に味わわせる。