幸田露伴を展開する 9

 

芭蕉紀行文集―付嵯峨日記 (岩波文庫 黄 206-1)

芭蕉紀行文集―付嵯峨日記 (岩波文庫 黄 206-1)

 

 

 ここからこの句に対する露伴の本論がはじまる。先に挙げた加藤楸邨の評釈に明らかなように、「白芥子」の句は、次の句、「牡丹蘂深くわけ出る蜂の名残哉」と同じ構造をもっていると思われる。旅の道中に面倒を見てくれた桐葉のところを牡丹とし、蜂を自分に例えたように、杜国のことを芥子に、自分を蝶に例えたのだろう。蝶が自ら羽をもぐなどということは、実際にはあり得ないことだが、詩歌の道は理を超え、霊的なものに入っていくことも珍しいことではないので、それは認めることにしよう。とすると、白けしの美しくあわれであるので、蝶が羽をもぐのだと解してもいいわけだが、それにしても、「形見かな」の五文字が「落着も無く見苦しく残りては、作家の所為とも覚え難」い。

 

 そもそもはじめの五文字を「に」で終え、「哉」で締める句では、中の七文字の最後の母音が「う」で終わるものが多い。芭蕉の句でも

 

 

 木枯に岩吹とがる杉間哉 

 夏山に足駄を拝む門出哉

 傘に押分け見たる柳かな

 吹度に蝶の居直る柳哉 

 梅が香にのつと日の出る山路哉 

 蒟蒻に今日は売勝つ若菜かな

 一年に一度摘まるゝ薺かな

 黄鳥に感ある竹の林哉

 

 

と「尖る」「拝む」「見たる」「居直る」「出る」「勝つ」「摘まるゝ」「感ある」といったように「う」の母音で終わっている。同じように、「しらけしにはねもぐ蝶の形見かな」は、俳句に習熟したものほど、「白けしに羽もぐ」で一息つけ、「蝶の形見かな」と読んで解釈するものが多いのも自然な勢いとして理解できる、と露伴はいっているが、私はこうした切り方を意識したことがなかった。こうした読み方から、「蝶の形見かな」が「落着も無く見苦しく残」るという感想が生じることになる。

 

 かくして、「白けしに」、「羽もぐ蝶の」、「形見かな」と区切られる句の評釈がはじまる。すると、最初に句から浮き上がってみえた「形見」という語を等閑にふしていたことに気づかざるを得ない。

 

 「形見」は、いまは記念、遺物の意味としてとられているが、もとは「かた」、つまり「形、象、像」という語と、「み」、つまり「見、想」という語が連結してできている。もののかたちは「形」、手に握ることはできないが心にのぼるもののかたちは「象」、物の形を写しのは「像」であり、目で見るのは「見」、心で観るのは「想」である。本来は語のままに、「かた」を「みる」ことであったが、一転して遺物の意味になった。

 

 それゆえ『古今和歌集』には

  

梅か香を袖にうつしてとゞめては春は過ぐともかたみならまし

 

とあり、『大和物語』では

かく帝もおはしまさず、むつましく思召しゝ人をかたみと思ふべきに

 

とある。

 

 これらは梅が香を春のかたみ、むつましく思った人を亡き人のかたみだといっているので、紅葉を秋のかたみ、残礎を古都のかたみとする歌なども、遺物や記念品とのみ解釈するのではなく、皆そのかたを見るべきもの、形を見られるものと詠じられているものとして味わう必要がある。そこに遺品であり、記念物としての意味が混じっていることはいうまでもない。

 

 『伊勢物語』には

  

いとまだき過ぎぬる秋のかたみには枝に紅葉ぞ散りかゝりける

 

とあり、源仲正の歌に

  

すみれさく奈良の都の跡とへば石ずゑのみぞかたみなりける

 

とある。これを逆に、散りかかる紅葉を秋のかたみといい、いしずえに奈良の都をしのぶともいえる。かたみは名詞として分類されているが、名詞に動詞が伴って成立した名詞なので、上手に使われるとそこに微妙な動きが生じるのである。

 

 これらのことを考え合わせると、「白芥子」の句は、「白芥子に」の「に」の字に無限の面白さを秘めていることがわかる。「白芥子は」とすると、単に、白芥子を、羽もぐ蝶の形見という形状に例えただけのことになってしまう。「白芥子に」とすると、清らかなもろく美しい花が、落ちてはいても落ちきってはおらず、そこに羽をもいだ蝶の生動を見て、ああその形見よと、嘆じている。

 

 人に贈る句が必ずこうした比喩や例えを用いているわけではない。芭蕉にはその前書きから、明らかに人に贈られた句が二句ある。「贈杜国」とされた別の一句、

  

笠の緒に柳わがゆる旅出かな

 

があり、「去年の侘寝を思ひ出て越人に贈る」とある

  

二人見し雪は今年も降りけるか

 

があるが、柳の句は送別か留別の情を述べたものだろうし、雪の句は二人で一夜を明かしたときの思い出に寄せたものである。

 

 つまり、白芥子の句は、加藤楸邨や潁原退蔵の評釈とはまったく異なり、白芥子を杜国に、蝶を芭蕉に例えた句ではなく、花を散らす白芥子に羽をもがれる蝶を見る句であり、白芥子も蝶もどちらも杜国を示しているのである。芭蕉がこの句を贈ったとき、杜国は既に罪を問われて自由を失っていたのではないかと露伴は推察している。

 

 おそらくは、大正以前においてもごく一般的な評釈だったと思われる白芥子を杜国、蝶を芭蕉に見立てる解釈を覆したこの文章は、しかし、まだこの評釈の序盤に過ぎないのである。