幸田露伴を展開する 12

 

芭蕉紀行文集―付嵯峨日記 (岩波文庫 黄 206-1)

芭蕉紀行文集―付嵯峨日記 (岩波文庫 黄 206-1)

 

 

 また、『野ざらし紀行』の貞享五年冬の句、

  市人にいでこれ売らん雪の笠

 この句は、『野ざらし紀行』では「市人よ此笠うらふ雪の傘」となっており、支考の『笈日記』で上句のように直されている。『笈日記』によると、この句には抱月が脇を付けて

  市人にいでこれ売らん雪の笠 芭蕉

  酒の戸たゝ鞭の枯梅     抱月

となっており、門弟のあいだでも、次をどう続けたらいいか、決着がつけないでいたが、そのときそばにいた杜国が自分も考えてみまたしたと、

  朝風にさき立つ母衣を引つりて 杜国

と続け、感心された。杜国は尾張俳人のなかでは年少だと思われるが、『冬の日』の頃には二十三、四にはなっていただろう。『春の日』の歌仙に杜国が加わっていないこと、その後芭蕉がわざわざ保美まで杜国を訪ねたことを考えると、ちょうど『春の日』の時期に、罪状がいまだ決まらず、自由に他人と会うことができなかったのだと考えられる。

 

 貞享二年から貞享四年のあいだに、杜国の句も、俳席に参加したことも記録に残っていない。そもそも杜国が死を免じられて、所払いになったわけだが、仙台藩において、金華山の傍らの某島が流刑の地として定まっているように、保美が流謫の地であったかどうかははっきりしない。

 

 保美は、三河の最南端で、海を隔てて尾張、伊勢に近いが、東海道よりはずっと引き込んだところにあり、わかりにくいところにある。あるいは、杜国は名古屋に住んで商売をしていたが、その俳号を考えると、謡曲の『杜若』にもある在原業平三河八橋で杜若(かきつばた)の五文字を各句の上に置いて詠んだ歌、

  唐衣きつつなれにしつまあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ

の杜若から採ったのではないかとも想像される。また『冬の日』に「岡﨑や矢矧の橋の長きかな」などは実景をよく知っているからでた句なのではないかと露伴は推察している。

 

 『笈の小文』で再び江戸を立った芭蕉は、名古屋の星崎にとどまり、

  星崎の闇を見よとや啼く千鳥

  京まではまだ半空や雪の雲

の二句をつくり、それぞれの句を発句として、同地の俳人たちと歌仙を巻いている。おそらく、このときに参加者のなかから、杜国が保美に隠棲している現状を知ったものと思われる。『笈の小文』ではこの二句の後に、「みかはの国保美と云ふ処に、杜国が忍びて在けるを訪んと、先越人に消息して、鳴海より跡ざまに二十五里尋ね帰りて、其夜よし田に泊る。」とあるように、もし杜国の居所を知っていたなら、わざわざたどってきた道を戻ったりせず、吉田からすぐに脇道に入り、直行したことだろう。

 

 保美に隠棲してた杜国に対して、芭蕉は『曠野』のなかで「しばし隠れ居ける人申しつかはす」という前書きで

  先づ祝へ梅を心の冬ごもり

という句をおくっている。辺境の地にもかかわらず、身のまわりの世話を惣七という人物がしていた。芭蕉は惣七に対しても「惣七に示す」として文章を寄せている。

旧里を去つてしばらく田野に身をさすらふ人あり 家僕何がし 水木の為に身を苦め 心を傷ましめ 獠奴阿叚が功を争ひ 陶侃が胡奴を慕ふ まことや道は其人を取る可からず 物は其形にあらず 下位に在りても上等の人ありと云へり 猶石心鉄肝たゆむこと勿れ 主も其善を忘る可からず

 

 獠奴以下は杜子が大歴年間、蘷州にいたときに書いた、「獠奴阿叚に示す」という詩があり、そこに「曾て驚く陶侃胡奴の異」という一句があるのにちなんでいる。「陶侃」は「陶峴」の誤りであり、峴の家来の摩訶というものが主に忠を尽くして川で死んだ故事に基づいている。

 

 また、貞享五年、芭蕉が杜国とともに芳野から須磨に旅をしたときには、旅の行路や眼についたものをまとめた手紙を連名で惣七に送っている。細かいところまでの心遣いがうかがわれる。