哲学機械 3 プラトン『国家』

 

国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)

 

 

 第二巻も正義についての論議が続く。しかし、短気なトラシュマコスはいなくなり、グラウコンとアデイマントスの兄弟が聞き手を引き受ける。彼らが望むのは、正義そのものが正しいことを納得のいくように説明してもらうことにある。つまり、ソクラテス流の曲折したアイロニーではなく、もっと直接的な証明が欲せられる。

 

 というのも、トラシュマコスの議論はなし崩しのうちに切り上げられてしまったからである。世界は羊飼いと料理人と航海士だけで成り立っているわけではない。羊、食べる者、船客などへの不正が即座に結果としてあらわれ、しかもそれが自分の不利益にもなるという立場にあるものはむしろ少ない。

 

 グラウコンが一般的に正義の起源と考えられていることとして説明するのは次のようなことである。人間は成長の過程で(それは種族としても個人としてでもあるが)、人に不正を加えることも自分が不正を受けることも経験する。ただ、どちらかといえば、人に不正を加えることによって得られる利益よりも、自分が不正を受けることによる苦しみの方が大きい。だから、「一方を避け他方を得るだけの力のない連中は、不正を加えることも受けることもないように互いに契約を結んでおくのが、得策であると考えるようになる。このことからして、人々は法律を制定し、お互いの間の契約を結ぶということを始めた。そして法の命ずる事柄を『合法的』であり『正しいこと』であると呼ぶようになった。」

 

 正義とは絶対的な基準なのではなく、不正を働きながら罰も受けず利だけを受けるという人間にとって最善のことと、不正を受けながら仕返しもできず我慢するしかないという最悪なこととの「中間的な妥協」でしかない。正義を積極的に善として尊重しているのは、不正をするだけの能力がない者だけだ。

 

 グラウコンは「ギュゲスの指輪」をたとえにだす。ギュゲスはリュディア王に羊飼いとして仕えていた。あるとき、大雨が降り、地震が起き、羊に草を食べさせていたあたりにぽっかりと穴が開いた。降りてみると青銅の馬があった。なかは空洞で、人間の姿はしているが人間より大きいものの死体があり、黄金の指輪をはめていた。それを手に入れ、羊飼いたちの集まりにでていたときのこと、指輪の玉受けの方を手の内側に回すと自分の姿が他人の目に見えなくなってしまうことに気づいた。透明人間になる能力を得た彼は、王の妃と通じ、果てには彼女と共謀して王を殺し、自ら王となった。要は、強大な能力さえもっていれば、誰でも正義という規矩などたやすく踏み越えてしまうだろう。

 

 現に、ごく常識的に世の中を見れば、正義であろうと不正であろうと強者が利益を得ていることは確かである。それを妨げているのは、神の力ではない。ユダヤキリスト教以前には神のうちに絶対的な正義など存在しなかった。ホメロスやヘシオドスを読めばわかるように、神々のあいだには諍いあり、殺しあいがあり、姦通があり、いわゆる不正と思われているものが充ち満ちている。ゼウスが最上の神だといわれているが、それは最上の人間が王と呼ばれるのとさして径庭はなく、ゼウスもまた不正なふるまいにはことかかないのだ。

 

 ギリシャにおいても死後の世界は信じられていたが、神々に欲望があることも当然のこととされていた。様々な祭儀があるという意味で信仰心は厚かったが、それらの祭儀は神々を喜ばせるためになされた。だから、いわゆる不正な行為をどれだけ行おうと、それが地獄での苦しみに直結しているわけではなく、十分な貢ぎ物をして神々を喜ばせていれば、死後の世界でも厚遇されるかもしれないのである。

 

 それゆえ、強者が不正なふるまいによって無理矢理に利益をむさぼろうとはしないのは、世間の評判を気にしてのことでしかない。いかに強者であろうと、世論が形成され、絶対的な多数となると、それを相手に勝つことはできないからである。強者が不正なふるまいをしないのは、世論という自分より強いものをつくりださないためでしかない。

 

 しかし、あらゆることにおいて能力に長けた者がいたとしたらどうか。いわゆる不正と思われていることを実行するだけの勇気と力があり、もしそれが発覚しても世論を納得させる弁論の能力もあり、有力な仲間や財力を有している者がいたとしたら。そんな人物がいたとしたら、「中間的な妥協」でしかない正義に心を惑わされることはないだろう。それが正義であろうが不正であろうが、好きなことを好きなふうにするに違いない。そしてそれが幸福であることも確かだろう。

 

 その対極にある者として、たとえば、ユダヤキリスト教的な神のいない世界におけるアブラハムやヨブを考えてみればいい。彼らは、あるいは息子を生け贄にしようとし、あるいは精神的肉体的苦痛を受け続けるが、それは絶対的な神への信仰を支えにしてのことであり、もし神が存在しないのならば、あるいは、存在するとしても、ギリシャの神々のように気まぐれであったとしたら、アブラハムは息子を生け贄にすることなど考えないだろうし、ヨブはただ深い絶望のうちに沈んでいくだけである。絶対的に無力な人間という観念は、そして絶対的な正義もまた、絶対的な神というものが存在してはじめて成り立つ考えであり、すべてが相対的であるなら、優れた能力をもつ者がそれに対応する利を得るのも当然のこととなる。

 

 正義それ自体の根拠を示すことができないのなら、アデイマントスは言う、「あなたが讃えているのは、〈正しいこと〉そのものではなくて、その評判であり、あなたがとがめるのは、不正な人間であることではなくて、不正な人間だと思われることなのだ。それでは結局、不正な人間でありながらその正体を気づかれぬようにせよ、とすすめていることにほかならない」ことになる。

 

 ソクラテスは、こうした批判に対して、「〈正義〉の味方となって、ぼくにできるだけのことをする」として、自分の議論を繰り広げる。

 

 ぼくたちが手がけている探求は並大ていのものではなく、よほど鋭い眼力の人でなければ手に負えない問題であると、ぼくには思える。で、ぼくたちにはそれほど力量がないのだから、こういうやり方でそれを探求してはどうかと思うのだ。つまり、あまり眼のよく利かない人たちが、小さな文字を遠くから読むように命じられたとする。そのとき誰かが、その同じ文字がどこか別のところにも、もっと大きくもっと大きな場所に書かれているのに気づいたとしたらどうだろう。思うにきっと、これはもっけの幸いとみなされることだろうね――まず大きいほうを読んでから、そのうえで小さいほうのが、それと同じものかどうかをしらべてみることができるのだから。

 

 大きな文字がなにかというと、著作の題名にもなっている国家である。一個人にも正義はあるが、国家にもまた正義があるだろうね、とソクラテスは問い、「ええ、たしかに」とアデイマントスは答える。「ところで、国家は一個人より大きいものではないかね?」というソクラテスの再びの問いかけに、「大きいです」と彼は答える。「するとたぶん、より大きなもののなかにある〈正義〉のほうが、いっそう大きくて学びやすいということになろう。だから、もしよければ、まずはじめに、国家においては〈正義〉はどのようなものであるかを、探求することにしよう。そしてその後でひとりひとりの人間においても、同じことをしらべることにしよう。大きいほうのと相似た性格を、より小さなものの姿のうちに探し求めながらね」

 

 ここでソクラテスは、最小限の人数からなる国家を構想する。最低限必要となるのは衣食住である(着るものと住居とは南国ではより緊急性が減じるだろうが)。また服や靴をつくるための材料のことを考えれば、牛飼いや羊飼いがいる。完全に自給自足の国を建設することはほとんど不可能である。そこで商人や船乗りが必要となってくる。市場ができれば、小売り商人、金を扱う者がいる。