シネマの手触り 1 タル・ベーラ『サタンタンゴ』(1994年)
原作:クラスナホルカイ・ラースロー
脚本:クラスナホルカイ・ラースロー、タル・ベーラ
撮影:ガボール・メドヴィーグ
音楽:ヴィーグ・ミーハイ
出演:ヴィーグ・ミーハイ、ホルヴァート・プチ、デルジ・ヤノーシュ
7時間18分モノクロで全編約150カットで撮られている。タル・ベーラは『倫敦から来た男』(2007年)を公開時に見ただけである。
7時間を越え、しかもモノクロである本作は、サスペンスにあふれ、長回しも少しも気にならなかった。しかし、その面白さを伝えようとすると、存外難しい。
この映画は12のパートに別れていて、まず、小さな村のなかで、出所がはっきりしない金を巡って、その金を持って村を出ることが相談される。一方、死んだはずの人間が戻ってきたことが村に伝わっていく。その死んだとされる二人だと思われる男が軍の将校に召喚され、なんらかの罪について叱責される。村の医師は酒を飲みながら村人たちの生活を見張り、それを記録している。酒がなくなり、家を出た彼は途中で倒れてしまう。そこに通りかかったトラックに乗せられ、どこかに連れ去られる。少女が猫をおそらくは殺鼠剤のようなもので殺し、死体を抱えながら、飲み屋で大騒ぎを演じている大人たちを窓越しに見ている。
次のパートでは逆に、先の死んだはずの人間を見たと主張する男を押さえ込むように、音楽に満ちた喧噪が高まっていき、その窓越しには少女の姿が見える。つまり、時系列に沿って物語が進んでいるわけではないことが明らかになる。
だが、問題をいっそう複雑にしているのは、時系列の混乱よりも、ハンガリーという国がもつ政治状況の難しさにある。ごく表面的な知識でその歴史をたどってみると、まず第一次世界大戦後のベルサイユ条約で、ハンガリーはトランシルヴァニア、スロバキア、クロアチアの各領土を失った。1920~44年までの25年間ミクローシュ・ホルティ提督の独裁下にあった。
第二次世界大戦において、ヒトラーはハンガリーが第一次世界大戦で失った領土を返還することを約束し、そのためドイツにとって重要な枢軸国になっていた。1944年以降ドイツ軍とソ連軍が衝突する主戦場となった。やがてソ連軍が勝利し、それをファシズムからの解放だと信じた人々は絶望することになる。
1945年にソ連軍は略奪と暴虐を尽くし、強姦された女性は十五万人に達すると推測されている。そして戦後、ヤルタ会談とポツダム協定において、ハンガリーの産業はすべてソ連に取り上げられ、ソ連に支配されることになる。いわゆる冷戦状況のなかにおかれるわけである。
そのうえ、ハンガリーにおいてより状況を複雑にしているのは、ソ連の圧政と貧困に対して民衆が蜂起したハンガリー革命が1956年に起きたことにある。市民は多くの政府関係施設や区域を占拠し、ソ連軍の大量の銃器と戦車に対し、火炎瓶と限られた銃で一時は勝利を収めたが、後続するソ連軍の投入によってやがて鎮圧された。それ以降、第二次世界大戦直後のソ連軍の暴虐と、このハンガリー革命は1990年ソ連の崩壊によって、冷戦時代が終了するまで話題にすることさえタブーとされた。
それゆえ、たとえば、タル・ベールが同国人として敬意を示している監督ミクローシュ・ヤンチョーでもそうであるが、日本では公開されていないが、1964年の『帰郷』などは、第二次世界大戦後、故郷であるハンガリーに帰ろうとする兵士が、ソ連兵に見つかって捕虜となり、共同生活をしているうちに奇妙な親近感が生まれてくる、ある意味わかりやすい映画なのだが、日本では『密告の砦』(1965年)という題で公開された映画となると、十九世紀、オーストリア支配下でゲリラ活動を行う者たちを描いたもので、荒野のなか横一列に配置された、なんの装飾もないむき出しの拘置所、麻袋のようなもので頭をすっぽりと覆われ、散歩のつもりなのか、数珠つなぎにぐるぐると円を描いて歩かされている異様な光景が、果たして事実そのようなものであったのか、アレゴリーや批判的なものとして描かれているのか、あるいはより個人的な幻想の領域に属するものなのか判断がつかないのである。
もちろん、単なる事実とは異なるリアリティは十分すぎるほどあり、それゆえ魅力的な映画なのだが、なんとなく落ち着かないことも確かなのは、ハンガリー人なら言外の意味として当然のように読み解かれていることを見逃しているかもしれないからである。
それはちょうど、外国人が東日本大震災と原発事故、それ以降の福島の状態のことはあるいはニュースなどで知っているにしても、それが劇映画のなかに入り込んでいるとき、リアリティの水準がわからないだろうことに通じるかもしれない。
そもそも『サタンタンゴ』は特に明確に時代が限定されているわけではない。ソ連の圧制下にあった冷戦のときのことかもしれないし、あるいは主人公の男が武器を調達する場面があることから見れば、ハンガリー革命前夜のことかもしれない。あるいは、ヴィクター・セベスチャンの『ハンガリー革命1956』によれば、第二次世界大戦の和平調停後にソ連に戦争賠償として根こそぎ金銭や産業がむしり取られたとき、「十三世紀にモンゴル人から襲撃された時、十六世紀にオスマン帝国に占領された時、そして、ソ連から解放された時と、われわれは大悲劇を三度経験した」とハンガリーではよく言われたそうだが、映画の終盤である男が教会の鐘を鳴らしながら、「トルコ人が来るぞ」となんども叫んでいることを文字通りにとり、史劇を現代風のコスチュームで演出しているのだととれないこともない。
結末についても絶妙であって、村に戻ってきた男が村人たちをトラックに乗せ、村に比較すればずっとモダンではあるが人っ子ひとりいない街で職業と金を与えて村人たちを置き去りにする、官僚の二人がタイプをたたきながらすべて彼らが計画した台本であるかのように出来事を記していく、いつの間にか村に帰った医師が、窓を材木でふさぎ、闇のなかで以前と同じように村人の行動をぶつぶつとつぶやく、といういわば三重の括弧づけがなされており、新しい生活の場が与えられたとも、すべてが官僚の計画だったとも、あるいは医師の幻想か夢であったとも考えられる多義性のなかに終わっている。そのことはこの映画にすべてを眺望するような俯瞰するショットがひとつもないことも関係している。これだけ長い映画において、小さなものであろう村さえ一望のもとに収まることがない。すべてが断片的であり、それゆえにサスペンスをはらんでいる。
それにもまして、逸してならないのは、この映画がひたすら歩くことに終始することである。歩いているシーンが大好きな私はそれだけで胸にぐっとくる。ブニュエルの『ブルジョアジーの密かな愉しみ』、ルイ・マルの『鬼火』、北野武の『その男、凶暴につき』などが好きな人はきっとこの映画も好きに違いない。しかもこれもまた私が好きな荒野をひたすら歩くのである。蛭子能収のマンガが好きな人はきっとこの映画も好きに違いない。しかもこれもまた私が好きな雨と泥のなかをひたすら歩くのである。東京のアスファルトだらけの道を呪詛している永井荷風の小説や随筆が好きな人はきっとこの映画も好きに違いない。