白銀の図書館 1 トーマス・マン『ブデンブローグ家の人々』(1901年)

 

ブッデンブローク家の人びと〈上〉 (岩波文庫)
 

 

 

ブッデンブローク家の人びと〈中〉 (岩波文庫)
 

 

 

 

 

 

 

 

啓蒙とは何か 他四篇 (岩波文庫 青625-2)

啓蒙とは何か 他四篇 (岩波文庫 青625-2)

  • 作者:カント
  • 発売日: 1974/06/17
  • メディア: 文庫
 

 

 

 『ブデンブローグ家の人々』は、「ある家族の没落」と副題にあるように、バルト海に面した北ドイツの都市、リューベックの伝統的な旧家であり、富裕な穀物商人の次男として生まれた、トーマス・マンが、父親の死後に没落した自らの家族をモデルとして、二十代の中盤に書き上げた最初の長編小説である。

 

 没落といっても、投機の失敗によって破産したり、家業を継いだ放蕩児が遊興に明け暮らすことによって遺産を食いつぶす個人の物語ではなく、四代にわたるブデンブローグ家の人々が、多少のムラはあるにしても、それぞれの生を全うしていくにもかかわらず、衰退するのであり、世紀末デカダンス的で反語的な破滅の肯定がうたわれるわけではない。

 

 この没落の過程には、1848年のドイツ市民革命がある。フランス革命以後、オーストリアを含めて39の独立国の集合でしかなかったドイツ連邦の各地で、王侯貴族たちによる専制政治からの自由を求めて革命にまで発展したが、結果としては反革命側の勝利でこの運動は終息してしまった。

 

 また、1870年の普仏戦争がある。ドイツの統一をもくろむビスマルクは、フランスをあおることにより戦争を誘発し、最終的に勝利を収めることによってドイツ帝国が樹立したが、それはまた第一次世界を準備するものでもあった。

 

 といっても、こうした世界史的な重大事件がこの小説で表立って扱われているわけではない。むしろ、意図的とさえいえるほどに、言及が避けられている。しかし、いうまでもないことだが、1914年に勃発する第一次世界大戦以前の1901年に発表されたこの小説は、それらの大事件を皮膚感覚として共有していた読者を前提としているのだが、優れた小説が常にそうであるように、社会史的、時代史的な描写の背景に普遍的な問題が横たわっている。

 

 岩波文庫だと全三冊になるこの小説を、私は「新潮社世界文学」の一冊、森川俊夫訳で読んだのだが、2段組、600ページ、四世代に及ぶ一族の歴史のなかで、中心をしめる、あるいは別の言葉で言えば、時代との根本的な矛盾のなかで身を裂かれるのは、三代目のトーマスであろう。

 

 家長であるトーマスは、妹の結婚相手としてペルマネーダーという人物が取りざたされたときに、その社会的地位や資産について詳細な調査を行う。そして、彼の商売が幾分小規模であり、「栄耀は望めないまでも、十分に市民的な共同生活を送るに足るものであること」を明らかにする。おそらく、私が読み落としてないのであれば、「市民的」という言葉は、ここではじめて用いられており、いわば、一代目、二代目が自然なものとして無自覚に体現していたものが意識化されたのだといえる。ここでは、社会的地位や資産とされているが、正確に言えば、それらによって得ることのできる生活様式が問題とされている。フランスなどと異なり、近代化が遅れたドイツでは、「自由、平等、友愛」に対抗しうる理念として市民があった。

 

 カントは「世界市民的意図における普遍史のための理念」のなかで、「自然が人間に解決を迫まる人類にとっての最大の問題は法を普遍的に管理する市民的社会の達成である。」と述べている。無拘束の自由を求める人間は、利己的な動物的傾向性に支配されており、ホッブス的な万人の万人に対する闘争のなかに置かれる。しかし、「同じこれらの傾向性は市民的結合態のごとき囲いのなかに入れば、以後に最良の効果を生ずるのであり、これはあたかも森の樹木がどれも他の木から空気と太陽を奪い取ろうとして、この二つのものを頭上に求めようとお互いに強要し合い、こうすることによって真直ぐな美しい成長を遂げる」(小倉志祥訳)はずのものであった。

 

 だが、死を前にしたトーマスは、こうした啓蒙主義の理念を既に受け入れることができなくなっており、ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』を読んで異様な感動を覚える。

 

 トーマスは、未知の、大きな、ありがたい満足感に溢れた。ここには圧倒的にすぐれた頭脳が人生を、この強力で残酷で侮蔑的な人生を摑まえて、圧伏し、断罪するのを見て、たとえようもない満足を覚えた――それは、人生の冷たさ厳しさを前にして、いつも恥ずかしい思いで、良心に痛みを覚えながら己れの悩みを隠し続けてきた悩める男が、突然偉大な賢者の手から、この世界のために悩む根本的な厳粛な権利を授けられる、そういう満足なのである――考えられる世界のうちで最善のこの世界が、実は考えられる世界のうちで最悪なものだと、冗談めかした侮蔑をこめて証明されているからであった。

 

 

 こうした没落感、厭世観を形象としてもっともよくあらわしているのは、トーマスが海を眺めながら浮かべる印象である。「次々に、際限なく、目的なしに、荒涼として、思い惑うように、打ち寄せては砕け、しかも心を和らげ慰める作用がある。単純なもの、必然的なものにはそういう作用があるものだ。わたしはだんだんに海を愛することを覚えた」というトーマスには、山は「冒険心と堅実さと生気とに溢れた、自信ある、不敵な、幸福な眼が、頂から頂へと歩んでゆく」ものであり、山が心身の健康をあらわすとすれば、海は疲労の果てに、病者が広大な単純さにおいて休息するものでしかない。

 

 トーマス・マンの次の長編小説が『魔の山』であり、しかもサナトリウムが舞台となっているだけにトーマスのこの感慨は非情に興味深い。

 

(本文でも述べているように、引用は『新潮社世界文学』、および理想社の『カント全集』によっているので、手に入りやすいものとして冒頭にあげたものとは異なります。)