電気石板日録 1 ジェイムズ・エルロイ『ホワイト・ジャズ』/絓秀実『吉本隆明の時代』

 

新装版 ホワイト・ジャズ (文春文庫)

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フリー・ジャズ(+1)

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吉本隆明の時代

吉本隆明の時代

  • 作者:絓 秀実
  • 発売日: 2008/11/29
  • メディア: 単行本
 

 

 ・ジェイムズ・エルロイは、『ブラック・ダリア』を、評判になってからしばらくたってから読んだと思うから、多分90年代のいつかで、映画の方で1997年のカーティス・ハンソンの『L.A.コンフィデンシャル』、2006年にブライアン・デ・パルマの『ブラック・ダリア』を見たものだから、なんとなく、「暗黒のL.A.」4部作と呼ばれるものの2作は触れてしまったわけで、気にはなっていたものの(それはもう何年も前に『ホワイト・ジャズ』を買っていたことでもわかる)『ブラック・ダリア』の内容もすっかり忘れてしまっているので、またそこから読み直すのも億劫だな、と思っているうちに、うやむやになっていて、それというのも、根が律儀であるのか、大長編小説が好きな割に、読み切ったのは『水滸伝』と『三国志演義』くらいのもので、ある程度読むと別の本が読みたくなって、そこからまた別の本が読みたくなり、と逸脱し続けることによって、もとの本に帰れなくなるのが常で、いまではあまり好きではないが、少年のころには愛読した司馬遼太郎なども、『関ヶ原』や『峠』が限界で、それ以上の長編、『竜馬がゆく』『坂の上の雲』『翔ぶが如く』などはいずれも読了しておらず、中里介山の『大菩薩峠』などは2,3巻までは幾度読んだかしれないが、多分最長5巻あたりで挫折しているはずで、とはいうものの、こうして馬鹿正直に最初から読み直す癖も歳をとるごとに緩んできて、掃除をしていて紙束の下にあった『ホワイト・ジャズ』をたまたま読み始めて、少々のことにはびっくりしない自信があるのだが、そのスタイルにはいまさらびっくり仰天してしまったというのも、どこでもいいのだが、たとえば、主人公で語り手であるクラインが襲われる場面

 

 「俺たち、取引ができそうだな。俺は毛皮のヤマには関心がない」

 「あなたは半分しか知ってない」ーー目が狂ったようにちかちかする。

 おれの背後に足音。

 両手を押さえつけられた/口をふさがれたーー息ができなくなった/袖をまくり上げられた/突き刺された。

 

などにもあらわれているように、一人称の小説とはいっても、場面を統御し、調整する固有の意識があるわけではないのはおよそ描写というものがまったく賭けていることからも明らかであって、筋にしても、いわゆるミステリー的な謎の開示が準備されているわけではなく、全体的にいえば、シュルレアリスム的な自動記述やウィリアム・バロウズのカット・アップに近しいものがあるが、よりしっくりくるのは、ジャクソン・ポロックのアクション・ペインティングあるいはそれをジャケットにしたオーネット・コールマンの『フリー・ジャズ』であり、疾走するエルロイを読むためには、距離を離されぬよう目の端でその後ろ姿をとらえながら、全力疾走で読み抜ける必要がある。

 

 ・いわゆる青春の本、その当時にはとりつかれたように読んだがいまとなっては何をそんなに夢中になっていたのかわからない、といった作者や作品は私にはほとんどない。最初に熱中した澁澤龍彦はいまもまだ好きだし、安部公房にしろ、三島由紀夫にしろ、平岡正明にしろ、前ほど手に取ることはなくなったが好きなことに変わりはない。しかし、20代のことを思いだすと、熱狂とまでは行かないが、夢中になって読んでいたにもかかわらず、その後まったく読まなくなり、思いだすことさえなくなった人物がいたことを思いだした。吉本隆明である。絓秀実の『吉本隆明の時代』(2008年)は評伝でも、その思想を論じるものでもなく、サルトルをモデルとして「普遍的知識人」となることを目指した吉本隆明がその時代のなかでいかにヘゲモニーを確立していくかに焦点を当てた「知識人論」で、一気に読んでしまったが、60年代の学生運動に関心がなく、知識もまったくない私には知らないことばかりで、思い返してみると、私が吉本隆明でもっとも集中的に読んだのは、『書物の解体学』と『マス・イメージ論』で、ほぼ1970年までの、吉本が知識人のなかでヘゲモニーを確立するまでが扱われている本書では、まったく触れられていないのであった。刊行当時、『マス・イメージ論』は、ある種、一部ではトンデモ本のたぐいと見なされていたと記憶するが、私にとっては身近な話題をわけのわからない言葉で論じていたので吸引力があった。振り返ってみると、20冊近くはあったはずの吉本隆明の本が幾度かの引っ越しによって1冊も残っていないことに気づいて、妙な感慨が湧いた。