ポエティカ 1 金子光晴『路傍の愛人』

 

 

 金子光晴というと、象徴主義の養分を存分に吸い上げた『こがね蟲』や第二次大戦でのアイロニカルな抵抗詩『鮫』などが代表作とされるだろうが、初期から戦中にかけての詩集のなかで私がもっとも好きなのは『路傍の愛人』である。それは単に、私にとってお堀端の道が東京のなかでもっとも好きな道の一つに数え上げられるからかもしれない。本来未刊行であった詩集で、昭和49年、昭森社から刊行された『金子光晴全集第一巻』にはじめて所収されたが、関東大震災あとと付された「バラック」などの詩編があることなどから、昭和初期に書かれたものだと考えられる。表題ともなっている詩は次のようなものである。なお[ ]内はルビ、〈 〉内は傍点。

 

外濠の水が青い。なまぬるい。四月の終りのある夕方。

この魚飼槽の〈ふち〉の、禿頭病の柳並木に、夕日が安つぽい金箔を貼りつけた。

俺は、参謀本部前から日比谷の方へ、

土手の草路づたひに歩いた。

 

 

 参謀本部三宅坂の方だと思われるが、私の場合、多くは神保町から九段下を通ってお堀にでて、そのときに気分次第ではあるが、多くの場合は有楽町から日比谷の方に向かうのだった。それゆえ、方向としてはこの詩の正反対に廻っていることになる。

 学生時代以降、多くの時間を東京で過ごしたが、かなり偏頗なものであって、新宿、池袋、銀座が中心であって、渋谷は表参道の方に抜けるか、神泉から下北沢に抜けるのに通るだけで、下町はせいぜいが浅草止まりで、隅田川を渡ることはほとんどなく、もともとろくに当てもない散策で、隅田川の橋〔どの橋か忘れた〕をわたって、ぐるぐると歩きまわっているうちに、まったく見覚えのない街の様子と、これまで経験していた東京の雰囲気とまったく異なるので、夜になるとさすがに怖くなって、途中で見かけた地下鉄に飛び乗ったものだが、降りたことも通り過ぎたことも、乗ったことさえない線だった。

 

俺とつれ立つすばらしい少女は、

パラソルの緑[エメラルド]のなかで燃えてゐた。

しげる若葉の森の奥の

木漏れ日をのぞくやうだ。

少女から吹き送られてくる風は、

潮[しお]のにほひがする。花壇の素馨[ジアスミン]のにほひがする。

 

 

 お堀端はいまのようにランナーで賑わっていることもなく、当然のことながら、オフィスビルはあるものの商業店舗はないから、東京のなかでももっとも閑静な一画だった。銀座ではよく経験したが、どうかすると日比谷あたりにいても、潮の香りが漂ってくることがあった。

 

君の強烈な電流と、新鮮な色彩で、俺はくらくらする。

危い! あんまりそばへ寄ると、

君は一枚の鱗[うろこ]をのこして、姿を消してしまふかもしれない。

そこで、俺は柳の蔭に、ちよつと立止り、濠をながめて、やりすごす。

君と、俺とはまだ面識がないからだ。

 

 

 お堀そのものの水は、藻が湧いたような深緑で、少女から吹いてくる風は海の潮風に違いなく、それが若葉の森と二重写しになり、エメラルドの輝きをもたらすに違いない。お堀の水は斥力として働き、皇居という小さなパノラマを広大な海原に解き放つものなのだ。

 

俺は、君をみつけたので、ものの一町ほどついて歩いただけだ。

俺はそつと心のなかで、君を仮の恋人としてはいけないかしら。

君にことわらないで、勝手な空想をすることは冒瀆かしら。

 

 

 既に皇居という場所が世界に開放されている以上、エメラルドのパラソルをもった少女を恋人と空想していけないわけがない。

 

俺の魂は、しきりにはしやいでゐる。

ピッコロよりもにぎやかで、クラリネットよりもものがなしい。

丁度、銃剣の先へ薔薇をつけた

チェッコ・スラバックの兵士のやうだ。

俺は、君の金魚のやうに赤い唇を、

キャンデーのやうに舌のうへにとろかす。

 

 

 ピッコロのようににぎやかで、クラリネットよりもものがなしい音というのは、ちんどん屋や祭り囃子を連想させる。輻輳する場所は閑静な通りに祭りを招き寄せ、銃剣に薔薇をつけた兵士を呼び込みもすれば、後ろについて歩いていたはずの少女の唇が舌の上でとろけるものとなる。

 

君は、丸の内の方へ廻る。

世界もあわてふためいて、君といつしよについて廻る。

芝居の大道具のやうに、

有楽町の建物が廻転し、せりあがり、

街の大小のオルゴールが鳴り出す。

芝居はこれからだ。えい。それに、なんたる間抜けさぞ。

俺の一つのまばたきといつしよに

彼女の客はゐなくなつてしまつた!

 

 

 丸の内まで来ると、まだオフィスビルは多いにしても、皇居周辺の閑雅な単調さは失われて、横道が縦横に張り巡らされ、厄介なことにその手前にはごみごみした有楽町が控えている。人通りの多さと装置の大きさは舞台を思わせるが、そして、オルゴールの音があたかも芝居の開始を告げ知らせてくれるかのようだが、無念なことに複雑な舞台のなかに彼女の姿は見失われてしまった。

 

俺は、ロシアの詩人のやうに、

もう一度、彼女にあはねば死ぬと心に誓ふやうな、

そんなロマンチストではない。

取上げられた皿の前で、俺は、せいぜいべそをかく位だ。

 

 

 ロシアの詩人というのは、最愛の妻の為に決闘を挑み、命を落としたプーシキンのことをいっているのだろうか。ロマンチストでなくとも、べそをかくくらいだから、十分センチだとは思うのだが。

 

俺は平凡な、掃いて棄てるやうな十把一束の人間だ。

俺がつゝぱつてみえるやうでも、

結局、見栄坊なだけだ。すぐ、ぺしやんこになる男だ。

可哀さうぢやないか。神さま。

あなただけは、けふの俺の失恋をみてゐたでせうね。

路傍の愛人よ。

一瞬のまのビアトリチェ。

生涯の間にもう一度、あふ機会はおそらくあるまい。

俺が、彼女に捧げたものは、

決して、にせものの純情ではない。

かうして、俺は、生涯かゝつてつくつた大切なものを、

むなしく、つかひへらしてしまふ。

 

 

 ベアトリーチェはダンテの『神曲』に登場し、地獄巡りの案内をヴェルギリウスに頼み、煉獄界でダンテを迎え入れる。キリスト教的に解釈すると、ベアトリーチェは「永遠の淑女」を象徴していることになるが、その唇を舌の上でとろかしていたのだから、神様に文句を言える筋合いではあるまい。

 

だが、彼女はしらない。彼女の輝やくうつくしさが、

俺のやうなゆきずりの、張三李四の、愛慕と讃嘆と、祝福とで、

妖しいまでに、ひときは照りはえたあの瞬間を。

 

 

 張三李四は張の三男、李の四男のことで、張も李も中国では非常にありふれた名であることから、平凡でつまらない人間であることを意味する。ところがそんな平凡で、行きずりの男が、少女にエメラルドの輝きと潮の香りを与え、世界へと解放し、金魚のような赤い唇を舌で転がしながら、神さまご用達のベアトリーチェまで引きだしてくるのだから油断がならない。