はなしの泉 1 古今亭志ん朝『坊主の遊び』

 

志ん朝初出し<三>火焔太鼓/坊主の遊び

志ん朝初出し<三>火焔太鼓/坊主の遊び

 

 

 店を構えるほどのものになると、隠居になると頭を丸めるらしい。三日に一度は床屋に行って、頭から顔中を剃ってもらうのだが、家にいても手に引っかかりを感じると気になるたちで、なじみの床屋さんに剃刀の手頃なものを頼んでいた。ぶらぶら街を歩いていると、ちょうど床屋の親方に行き会い、いい剃刀を手に入れましたと渡された。なるほど、軽すぎもせず、重すぎもせずちょうどいい具合である。

 

 これはいいものを手に入れたと話をしている最中に、ご隠居、ちょいちょい吉原に通っているそうじゃありませんか、最初は白を切っていたのだが、そこまで隠すことでもなし、店を譲って、連れ合いにも先立たれてしまうと、特にこれといった趣味もなく、一時はぴったり行かなくなっていた吉原通いがまたはじまってね、と白状した。聞くと床屋の大将も、店のものの手前、なかなかいくことができないが、もともとは嫌いではないという。

 

 そこで二人して遊びに行く相談がすっかりまとまり、まだ時刻が早いので、小料理屋でいっぱいやって繰り込んでいった。ご隠居はなまじ情が絡むとことが面倒になる、となじみの見世も妓もつくらない主義だという。中の上くらいの見世がいいんだというご隠居のお見立てにしたがって、さる見世に入った。

 

 ところが、床屋の親方、滅法酒癖が悪い、呑めば呑むほど青くなり、口が悪くなって喧嘩腰になる。滅多に初回からは入れるわけではない、たまたま空いていた花魁ませがきの部屋には入れたのはいいが、酔っ払った親方のそばには妓は寄りつかず、ふざけるない、と見境なく喧嘩をして席を立って帰ってしまった。

 

 なんとかしらけた場所を収め、ご隠居は花魁と二人っきりになれたが、花魁がすぐほかに呼ばれて帰ってこない。いらいらしながらまっていると、ようやく帰ってきた花魁も既にぐでんぐでんに酔っ払っている。とにかくちょっと寝かしてちょうだい、坊さんは嫌いだよ、と寝てしまった。今日は酒癖の悪い奴に当るもんだなあ、と思っていたが、段々腹が立ってきた。なにか仕返しがしてやりたいなあ、と思いだしたのは、床屋の親方にもらった剃刀、眉毛を片っぽ剃り落として、と顔を見直すとどうもバランスが悪い、もう片方も剃ってしまった。ずいぶん額が広くなったぞ、と思ったがまだしたりない、もみあげを剃り、前髪を剃ったりしているうちに坊主にしてしまった。

 

 おおいに満足したが、これじゃあ商売ができないじゃないか、身請けしてくれなきゃ困る、などと言い出されはしないかと心配になってきた。急に用を思いだした、といって逃げ帰ろうとする。見世のものは、お相手はませがき花魁でしたか、花魁、お客さんがお帰りだよ、と呼ぼうとするが、かまわないよ、かまわないよ、と逃げだした。お客さんのお帰りに挨拶もしないで、と怒ったおばさんが、花魁を呼びだすと、わかりましたよいまいきますよ、とふらふら部屋から出てきた花魁が草履でつるんと滑って障子の桟に頭をぶつけ、頭をなで上げ、あらいやだおばさん、お客様ここにいるじゃないの。

 

 坊主というと私は『水滸伝』の花和尚の魯智深をまっさきに思いだして、肉を喰らって鉄仗を振り廻さねばならない気分になってくるが、若いころから坊主頭の私は肉こそそこそこ食べるものの、箸より重いものをもったことがないのである。

 

 『大山詣り』でも長屋のおかみさんたちが剃髪するが、それは自分の亭主たちが死んだという熊公の嘘を聞いたからだった。髪の形をみればその職業や身分がおおよそわかった江戸時代においては、髪の毛は相当に大事なものであり、隠居になればこそなくなってもいいものだが、花魁を坊主にしてしばらくたってから青くなるというのはよくわかる。実際、思い返してみると、現代においても、どんな奇抜な髪型を見ようが、街中で坊主の女性は見たことがない気がする。とすると、坊主とは究極的な性差なのかもしれない。

 

 坊主になっていいのは、身体にひとつのオブジェが増えることにある。頭がオブジェになるものだから、脳の働きも止まって、キリコの絵のなかのように、永遠を呼吸しているかのような気分になる。