シネマの手触り 8 アルフレッド・ヒッチコック『北北西に進路を取れ』(1959年)

 

北北西に進路を取れ 特別版 [DVD]

北北西に進路を取れ 特別版 [DVD]

  • 発売日: 2010/04/21
  • メディア: DVD
 

 

脚本:アーネスト・レーマン

撮影:ロバート・パークス

音楽:バーナード・ハーマン

タイトル・デザイン:ソウル・バス

出演:ケイリー・グラント

   エヴァ・マリー・セイント

   ジェームズ・メイソン

 

 何度も見て、相変わらず不詳なのは、主人公を演じるケイリー・グラントが何歳に設定されているかにある。エヴァ・マリー・セイントの方は、30歳手前の20代であるということが劇中でいわれている。グラントは、警察沙汰に巻き込まれると母親を呼んでしまうような男なのだが、命がけの冒険にも躊躇なく飛び込んでしまうようなところがある。内気なマザコンから女性をリードするダンディまでシームレスに移行することのできる得がたい俳優なのである。ハワード・ホークスの『ヒズ・ガール・フライデー』ではもっとも台詞量の多い役柄を演じたが、この映画でもその一端はあらわれていて、とにかく台詞が早くて口舌がはっきりしており、しかもそれを感じさせないのは、日本にはいないタイプの名優だといえる。

 

 はなしは単純で、単なるビジネスマンであるグラントが、冷戦間のスパイ戦争の抗争に巻き込まれてしまう。ニューヨークの高層ビル群の骨格を抽出したかのようなソウル・バスのタイトル・バックが最高にかっこよく、実際に、もともとイギリス人であるヒッチコックは、ニューヨークのビル群といい、サウス・ダコタの、整地されているがゆえに、荒野ですらないが、四方を見渡すかぎりなにひとつ存在しない、それでいて区画されているバス停の周辺、建国の祖となった大統領たちが彫られているラシュモア山とそれに対面するように建つ犯人たちのコルビジェ風のモダンな住宅にいたるまで、まさしくアメリカでありながら、アメリカ映画では滅多に見ることのない異化されたアメリカが、年齢不詳のグラントとあいまって、ソウル・バスのタイトル・バックと直結するようなあり得るはずのない空間を生み出している。

 

 また、この映画ではヒッチコックが意識的に用い始めたというマクガフィンが存分に働いている。マクガフィンとは、それ自体には意味はないが、物語を推進させるものである。この映画でいうと、彫刻のなかに隠されたマイクロ・フィルムがそれであり、どうやら敵の手に渡ると厄介なことになるものらしいのだが、現実にはそこにはなにが写されており、それが利用されることによって、誰がどのような形で困ることになるのかは明確にされるわけではない。つまり、それ自体は空虚な対象であり、車輪の中軸のように、敵も味方もそれを中心にしてぐるぐると回り、物語を先に進めることができる。

 

 だが、現在ではごく初歩的な手法として用いられているこのマクガフィンは、考えてみると一筋縄ではいかない。この仕掛けによって冷戦間の熾烈なスパイ活動が明らかになるからといって、別にそうした国際状況が描きたかったわけではあるまい。スパイ活動そのものもマクガフィンでしかないともいえる。それではケイリー・グラントが母親への固着から離れ、エヴァ・マリー・セイントとカップルを成立させることに眼目があるのだろうか。あるいは、それさえもマクガフィンに過ぎず、母親からの独立とカップルの成立はいかにもアメリカ的であり、異化されたアメリカを描くことにこそ眼目があるのかもしれない。あるいはそれさえもマクガフィンでしかなく、そうしたすべてを宙づりにしたサスペンスをつくりたかっただけなのかもしれず、それかあらぬか、サスペンスの巨匠と言われるヒッチコックの映画のなかでも、随一といっていいくらいサスペンスに富んだ傑作である。