電気石板日録 3 神韻や職人づくしの呆け顔
・幸田文は堅い柄、縦縞、横縞や、市松、亀甲などのきものが自分でも好きで、他人にも似合っていると言われるが、若いころには格子柄を着たいと思っていた。
ところが、義母(露伴の後妻で、幸田文を通じてしか知るすべがないが、キリスト教に凝り固まった頑迷な人物として描かれたり、のちにはある程度の理解を示しているが、露伴と相性が悪かったことは確かである)が強硬に反対する、「そんな下司つぽいものをいい家庭の娘が着れば人格にかかわる」というのである。格子柄というのはもっぱら水商売ややくざが着る柄らしい。例によって、義母の相当強いバイアスがかかった見方には違いないが、浴衣以外にきものを着たことがない私にはまったく見当もつかない。
暴論とは思っても、幸田文にはその文脈はわかったわけで、少なくとも私の周辺にはそうした文脈を理解できるものはいない。
・職人もつらい。
アマゾン・プライムでデヴィッド・ゲルプの『二郎は鮨の夢を見る』(2013年)を見ると職人も既に絶滅しようとしている。
桂三木助の落語、『黄金の大黒』や『ねずみ』の左甚五郎のように、職人もある限度を超えると、畸人伝のなかの一人物として扱うのが礼儀であり、というのも、限界を超えた技術は入神の技として讃嘆するしかないからである。
本作は数寄屋橋の二郎というすし屋の大将、二郎という人物をおったドキュメンタリーであり、本人は自分が職人であることに強いこだわりを示しているようなのだが、監督の生真面目さなのか、エギゾチシズムによるのか、畸人として描くだけのつつしみがない。
「シンプルさと突き詰めるとピュアになる」といった意味のことを二郎氏は語るのだが、既に職人の言葉ではなく、芸術家の言葉である。畸人とはまた、職人が期せずして芸術の領域に踏み込んだことを示す便利な言葉でもある。
すし職人ということでいえば、にぎり十貫いくかいかないかで3万円からという料金も、すしの値段としては私には法外に思える、繰り返しになるが、それが芸術なら別に問題はないのだが、本人は職人のつもりでいるので居心地が悪い。
山本益博が中年の男女4~5人を引き連れて会食する場面にいたり、恥ずかしくて、見ているだけで居心地が悪くて、非常にわいせつなものを見た気分になる。
・鬼貫はほぼ芭蕉の同時代人であり、「誠の俳諧」を提唱した、私は平明な句が好み。
春の水ところどころに見ゆる哉
咲くからに見るからに花の散るからに
おもしろさ急には見えぬ薄かな
風もなき秋の彼岸の綿帽子
ついでに私も一句
神韻や職人づくしの呆け顔 礎英