白銀の図書館 4 朝吹真理子『きことわ』(2011年)

 

きことわ (新潮文庫)

きことわ (新潮文庫)

 

 

 

野坂昭如コレクション〈2〉骨餓身峠死人葛

野坂昭如コレクション〈2〉骨餓身峠死人葛

  • 作者:野坂 昭如
  • 発売日: 2000/11/01
  • メディア: 単行本
 

 

 退嬰的であることにおいては人後に落ちない自信をもつ私ではあるが、実に久しぶりに、いや、以前というのがいつのことであったかさえ私にははっきりとはしないのだが、こいつは手強い相手だと感じさせられた。もちろん、文章力のことをいっているわけではないので、念のため。また、退嬰的ということで特に褒めるつもりはないが、けなすつもりもなくて、要は性情のことを述べているので、性情は否応なく存在するもので、それを人間的弱点として直そうとするかどうかは個人の資質による。

 

 『大言海』には「[進取ニ対ス]アトヘシザルコト。シリゴミスルコト。退守。保守。」とあるが、ある種政治的な意味合いとして定義することは問題を混乱させるだけだろう。1960年代の若松プロの映画を見れば明瞭なように、胎内回帰願望と革命指向は親和性が高いのである。むしろ、小説内にもアルバムが登場するスティーヴ・ライヒが思考実験として思い描いた音楽、大きな振子を振り、最初は大きかった振れが感じられないほどの緩さで縮まっていき、やがて静止のうちにとどまってしまうような、慣性の法則とそれを邪魔するエントロピーや摩擦を経験することにこの上ない愉悦を見いだしてしまうような人間に対してこそ「退嬰的」という形容を使いたいのである。

 

 貴子と永遠子は少女時代の夏の一時期、葉山の家で時間を共有した。貴子の母親である春子が死んでから、二人がともに夏を過ごすことはなくなり、十年以上が過ぎ去り、年上である永遠子はすでに子供があり、母親の淑子がその葉山の家の管理人であって、永遠子はいわば同世代の子守のようなものだったが、貴子の一家は分け隔てることなく接してくれて、夏だけではあったが、存在したかもしれない姉妹として時のなかに身をゆだねていた、といった事情ももう心得ている。ところが、使われなくなった葉山の家を売却することが決まり、十年以上の時を隔てて貴子と永遠子は再会することになる。

 

 とはいっても、再会に伴うこともあるだろう期待や喜び、あるいは隔てられたときが生みだした齟齬や失望が描かれるわけではまったくない。すでにして時は失われているのだが、失われた時を求めているものなど存在しない。小説の冒頭から貴子と永遠子の記憶と夢は混在しており、それは不倫ののち、いまだに結婚しないでいる貴子の現在によって脅かされるものでもない。

 

 得体の知れない力によって貴子と永遠子の髪の毛が、別々の場所、別々のシチュエーションで引っ張られるという印象的なエピソードがあるが、それは、過去と現在とが共存しているという、人間であれば自然であるのかもしれないが、物理的にいえば不自然でもある状況がもたらした力の影響であり、髪の毛は爪とともに、かろうじて人間における時間の微細な作用を認識できる程度で指し示してくれるものなのである。

 

 この小説で働いているのは、ノスタルジーですらなくて、夢も現実も、過去も未来もほどけない髪の毛のように渾然としている世界においては、漂うに任せて身をゆだねるしかなく、もしかしたら私が負けているかもしれないと感じざるをえないのは、私は年に数回ほどは、かくも無法な道徳のない世界に安住してもいいのだろうか、と心配してしまうことがないとはいえないからで、ここまで書いて、こいつは手強い相手だと前回感じた小説を思いだした、野坂昭如の『骨餓身峠死人葛』である。