シネマの手触り 9 デミアン・ルグナ『テリファイド』(2017年)

 

テリファイド(字幕版)

テリファイド(字幕版)

  • 発売日: 2019/03/20
  • メディア: Prime Video
 

 

脚本・音楽 デミアン・ルグナ
撮影 マリアノ・スアレス
出演 マクシ・ギョーネ、エルビラ・オネット、ノルベルト・ゴンサロ
 
 アマゾン・プライムとネットフリックスで見ることができる。
 
 監督で、脚本や音楽までつとめているデミアン・ルグナはアルゼンチンの人らしく、この映画以前にはダニエル・デ・ラ・ベガの『ザ・ホスピタル』の脚本を書いているが、すでに10年前の2007年の作品である。アルゼンチン映画というのはまったく記憶になく、2007年の『REC』は言葉こそスペイン語だが、そのままスペイン映画であり、『エル・トポ』や『サンタ・サングレ』のアレハンドロ・ホドロスキー監督は、チリの出身であり、首都がプエノスアイレスだと聞いて、ようやくボルヘスの出身地だと気づいたが、結局映画を見るのははじめてかもしれない。
 
 とにかく妙な映画で、ホラーであることに間違いはないが、親の所行が子に祟りといった単純な構造をもった映画こそ現在ほとんどなくなって久しいが、自分でも知らない規則を破ってしまったとか(アマゾンの奥地やカルト集団のなかに入り込んでしまうものなど)、あるいはこの世界に現に生きていることを隠喩としてあらわしていたり(ゾンビ映画)、因果の細い糸はつながっていて、因果関係がないという強みによって恐怖を喚起していたはずの清水崇監督の『呪怨』シリーズにしても、伽耶子とその子供の俊雄のキャラクター化が進むことによって、呪いと伽耶子なり俊雄なりが結びつき、あたかも彼らの呪いが顕現するかのように見られるようになってしまった。
 
 デミアン・ルグナ監督も『呪怨』には影響されることが大きかったかもしれない。実際、私の記憶が確かならば、酒井法子が出演した『呪怨2』(2003年)だと思うのだが、そのなかでの印象的なアイデアがそっくり用いられている。発想の根っこにあるものとしてもっとも近しいのはクライヴ・バーカーの『ヘル・レイザー』(1987年)だろうが、確かあの映画でも、スキン・ヘッドの男たちが異世界の王子なり、使者なりとして登場したはずで、この映画のようなきらめく無意味さとは無縁だった。
 
 なにしろこの映画はさっぱりわからない。物語としてわからないのではなく、はなしとしてはこの上なく明確に伝わるのだが、いわばそれがどうしてこのような映像なり音響なりの感覚へと諸帰結するのかがさっぱりわからないのである。どうやらアルゼンチンの郊外の一角がおかしな領域に入り込んでしまったらしい。飲み込み顔の三人連れが調査にあらわれるが、特になんら結果を示すことなく次々に死んでいってしまう、そして映像は映像で、異様な事態こそ描写するが、そこに物語とのどのような連関があるのかはわからないのである。あたかも、物語と映像という二つの別々な系列があって、恐怖という位相関係によってのみかろうじて同じ時間を共有しているかのようなのである。
 
 問答無用の袈裟がけにあったかのようで、ホラー映画にかけてはすれっからしの私ではあるが、ここ20年くらいで一番怖かった。