白銀の図書館 5 演奏と批評〜遠山一行について Ⅰ

 自明だと思われていることを疑問視することから批評は生まれる。少なくとも日本において、遠山一行は音楽という分野においてほとんど唯一の批評家である。武満徹高橋悠治は作曲や演奏の傍ら文章をよくしたが、作曲、演奏の副産物であり、自らの成立基盤である音楽の意味を問おうとするものではなかった。わずかに吉田秀和の存在があるがレコード(いまではCDはおろか、ダウンロードの対象になっているが)、指揮者、演奏家などのガイド役として役に立つことはあっても、そこから私は批評的な刺激を受けたことなどなかった。文章のうまさにも定評があった吉田秀和は、多幸感に包まれたグルマンであり、音楽的な食通だった。

 

 私がはじめて読んだ遠山一行の文章は、生前、しかも死の30年以上前に、新潮社から出た『遠山一行著作集』の『ショパン』である(現在は新潮文庫から出ている)。ちなみに遠山一行は1922年に生まれ、1913年生まれの吉田秀和のほぼ十歳年下であり、吉田秀和が2014年まで98歳の長生を誇ったのと競うように、同じ2014年92歳まで生きた。小林秀雄河上徹太郎は1902年の生まれで、一世代上に当る。私はうかつなことについ最近までその文章を読んだことさえなかった。いわゆるクラシックについて日本に批評家が存在するとは思ってもいなかった。歴史家=学者と時評家がいるだけで、いわば自身の実存を賭けるような批評家がいるとは思わなかった。むしろ、時代小説の五味康祐の『西方の音』などに鬼気迫るものを感じた。ただ世代的に、LPを買って聞いた経験はあるのだが、オーディオに傾注するような余裕も、財力もなかったし、そんな資質でもなかった。しかし私にとってはつい最近である2014年まで生きていたことを思うと、なにも接点はなかったが、どこかで話を伺う機会があったかもしれない、と自分もある一定の年齢を過ぎると思うようになるものである。

 

 そもそも私が遠山一行に関心をもったのは、小林秀雄に較べて、ほとんど言及されることのない河上徹太郎について一冊の本を書いていること(『河上徹太郎私論』)にあった。小林秀雄については、相当熱心に読んだが、ある時期以降ほとんど読み返すことがなくなったが、河上徹太郎の『自然人と純粋人』や『羽左衛門の死と変貌についての対話』などの初期の文章と、晩年の『吉田松陰』や『歴史の足音』などの文章への推移が喉に引っ掛かった小骨のように気になっていた。『自然人と純粋人』などについては最初に読んだときにはまるでちんぷんかんぷんで、そのときには小林秀雄の随伴者としか思っていなかったので、さして気に止めることもなく読み過ごしていたが、小林秀雄に対する関心が薄くなっていくとともに、存在感を増していった。『日本のアウトサイダー』やコントラ構造のいかにも図式的な構図はそうした殻を与えなければなにものかがどろどろと流れだしてしまうのっぴきならない状況を伝えているように思われてきた。そもそも、『吉田松陰』以降の長州人を主題にした文章を果たしてどのように位置づければいいのだろうか。鴎外流の史伝でないことは確かだが、かといって伝記とも思想史とも言い難いものであるし、サルトルがそのフローベル論で行なったように、時代から社会と個人、そしてその作品まで全体を捉えようとする灼けつくような執念を感じるわけでもない。だが、いまは河上徹太郎論をするときではない。

 

 河上徹太郎との関わりを除けば、遠山一行を読もうと思ったのは不純な動機でしかなく、単に新しい音楽のガイドを探していたのである。ジャズは大まかな流れを把握していたので、もっぱら望んでいたのはクラシックのガイドであり、丸谷才一吉田秀和の名文を称賛したが、楽譜も読めないのに傲慢である私は、なんにつけほどよく糖衣をまとわせるその文章に辟易していた。もちろん、淀川長治は偉大だが、ネオ・リアリズモヤヌーヴェル・ヴァーグが登場してはじめてそれが実感できるのであって、しかも映画より遥かに長い歴史をもつ音楽の世界である、批評的な観点が存在しないはずはない。しかし私にはなんの手掛かりもなかった。専門の雑誌を読むこともなければ、新聞の時評でさえろくに読んだことがない。そんな私が遠山一行に手をだしたのは、その名前にかすかに覚えがあったからでしかない。であるから、遠山一行が吉田秀和と十祭程度の年齢の差しかないことも、何冊か読んではじめて知ったし、三島由紀夫大岡昇平中村光夫吉田健一などの作家、批評家の面々が集まって、文壇的な話は一切抜きにして、月一度友人たちで楽しく飲もうという主旨の鉢の木会が元になってできあがった、同人が編集部に邪魔されることなく、書きたいことを書きたいように書けるよう丸善刊行の贅沢な雑誌『聲』に影響を受け、江藤淳らと『季刊藝術』を立ち上げたこともはじめて知った、

 

 そして、遠山一行を読むことで、私は三度驚かされることになる。