白銀の図書館 6 演奏と批評〜遠山一行について Ⅱ

 

カラー版作曲家の生涯 ショパン (新潮文庫)

カラー版作曲家の生涯 ショパン (新潮文庫)

 

 それにしても冒頭がショパンである。ピアノという楽器が好きな私は、ピアニストのCDを薄く広く聞いてきたが、浅知恵と虚栄心から、バッハやハイドンモーツアルトであれば最上、ベートーヴェンまで拒否するものではないが、シューマンならともかく、リストやショパンとなると小馬鹿にしていた。コルトーホロビッツで散々聞いてはいたが、名人芸を披露する曲としてのみ聞いて、作曲家本人のことなどセンチメンタルなロマン派としか考えていなかった。

 

 ショパンは正確な生年月日については諸説あるが、1810年にポーランドで生まれ、1849年にフランスで死んだ。父親はフランス人で、貴族の家庭教師を務め、母親はポーランドの元貴族であったという。1830年11月にはポーランドロシア帝国の支配に対する武装蜂起が起きる。旅行中であった20歳前後のショパンはおよそ半分の残りの生をフランスで送ることになる。旅行中であったのは、すでにショパンが音楽家として売れっ子で各国を回っていたことによる。時代も国も違い、ショパン交響曲もオペラも書かず、音楽性においてはまったく異なり、5年程度長生きはしたが、音楽を生活の活計にする状況そのものはモーツアルトに近しいといえるかもしれない。パリに居を定めてからは、私のような無知な人間でも知っているジョルジュ・サンドとの交情があり、「24の前奏曲集」「幻想曲」「ポロネーズ」などの作品を生みだした。

 

 ところが、遠山一行によれば、ショパンにおいて西欧音楽に断絶が生じる。ショパンは音以外の感傷、音楽にまとわりついていた音以外の意味を一切排除した。つまり、ショパンにおいて、音楽ははじめて近代を獲得した。バッハは対位法を集大成し、膨大なミサの音楽が存在しピタゴラスに通じるような神の世界を垣間見させる。、モーツアルトは神童の名をほしいままにし、呼吸するように作曲して、天使のように音楽を生きていたので、音楽における音を十分に意識したとはいえない。音楽を遊弋するものには、水棲の生物に水のことは意識されないように、音が意識=反省の対象となることはない。要するに、音楽的にはまったく異なるこの二人の巨人の場合、我々はなんらかの「超越的な観念を予感」する。

 

 一方、ショパンは近代的な自意識を経過した詩人が夾雑物を排除した言葉に向かい合ったように、意識的に裸の音に直面したリアリストの音楽家であり、画家のドーミエに比肩しうるような存在だと論じられているのを私は読み、毛ほども考えていなかったことなので、文字通り、腰をぬかさんばかりに仰天してしまった。そして、遠山一行の著作集のなかで、とりあえずショパンは興味がないので、飛ばそうとしたが(実際、ぱらぱらとめくって元の通り箱に入れて、別の場所に移しまでした)、どんな気まぐれだったか、既に覚えてさえいないが、やっぱり読んでみよう、と別の場所に置いてしまった本を再び引っ張り出し、読み始めることができた僥倖に感謝した。なにしろ、吉田秀和などを読んでいては遭遇することさえない、仰天するような事態にたちいたったのだから貴重である。それから、これはより音楽的なことで、私にはその当否を判断しかねるが、遠山一行は、ショパンの代表作を、パリに移ってからのものではなく、「エチュード」や「マズルカ」のような前半生の作品に求めている。だが、ショパンロマン主義者などではなく、諧謔を伴ったリアリストであることは、ふんだんに引用されている書簡を読めば、十分すぎるほど明らかである。ポーランドを立ち、ウィーンに滞在したときの友人マツシンスカ当ての手紙にはこう書かれている。

 

手紙は全部ウィーンに回してもらうようプラハで頼んでおいたのに、まだ一通もとどいていない。君がこの雨にやられちゃったせいか。君が病気なのではないかという気がする。頼むから無理はしないでくれ。君とぼくは同じ粘土でできているんだ。いままで何度ぼくが分解しちゃったか知っているだろう。でも、この雨でぼくの粘土はとけたりはしない。体のなかの温度は華氏で九十度もあるのだからね。しかしぼくのなかにはウサギ小屋をつくるだけの粘土も本当はありはしない。(中略)

 追伸 ペンがまるでシャベルみたいで、もっているのがやっとだ。つまらないことを書いたのに驚かないでくれ。もっと書きたいのだが、考えがまとまらない。

 

 

 こうした明朗な一節には、友情はあるがそれに寄りかかる脆弱さもないし、ナルシシズムも見られない。あるいはまた、1831年にウィーンにおいてノートに書かれたという文章。

 

ーー今日のプラター公園は何ときれいだったろう。沢山の人が、私には何の関心もはらわずにそぞろ歩きをしている。私は緑の樹々をながめ、春の香りをいつくしむ。この邪念のない自然は、幼い頃の気持ちを呼びもどさせるようだ。嵐が近づく気配で家にもどる。嵐は来なかったが、心には悲しみが満ちている。今日は音楽でさえも私をなぐさめてくれない。もう夜がふけたが眠りたくない。何かがまちがっている。しかし、私の二十代はもうはじまっているのだ。

 

 

 ここには正確に年齢を経ていないという疎隔感を含めた感情の移り変わりを冷静に見守る目があり、やはり感傷やナルシシズムなどの自己耽溺には無縁なのである。俄然私はショパンを聞き直さずにはおれなくなり、サンソン・フランソワショパン曲集を聞き、ロマン派といった妙な先入観こそなくなったが、それで遠山一行の論点を全て首肯したかというとそれほどことは単純にはいかない。禅の世界には頓悟と漸悟がある。頓悟はきっかけはなんであれ一挙にして悟りを開くことにあり、漸悟は教義の日々の研究、あるいは日常座臥の細則に従うことによって、徐々に本義へと近づいていくことを言うが、特に宗教に限定しなくとも同様のことはあって、ただ宗教のように神がいないときには、不気味で意図を欠いたむき出しの音に直面せざるをえなくなる。また、頓悟と漸悟とは明確に区別されるものでもなく、日常における研鑽が頓悟を準備していることもあるし、頓悟によって得たものを確かめるためにそこから研究の道に入ることもある。こうした感受性に関わる問題は、頓悟と漸悟を往復する以外にはない。遠山一行は次のように書いている。

 

 富裕な家庭に育ったといっていい、遠山一行は幼いときからピアノを習い、ある程度習熟した頃からショパンの音楽に親しむようになった。それから何年ものあいだ、ピアノの弾き手、聞き手としてショパンの音楽が遠ざかることはなかった。しかし、それがあるとき、突然、その音楽が違って聞こえるようになった。

 

どういったらよいのかわからないが、今までさわやかな叙情で私の心をとりまいていたショパンのメロディの円い持続が破れ、その奧に一つ一つの裸の音が鳴るのをきいたとおもった。その音は、私の指の下でも容易に美しい感傷の歌をうたっていたのだが、それ以来、頑固で非妥協的な壁のように耳の前に立ちふさがって、私の心が音楽について夢みるのをさまたげるのである。それはすでに友人であるどころか、今まで音楽と呼んでいたすべてのものからきりはなされ、彼等とは少しも似たところのない新しい体験として現れることになった。それは私をひどく不安にしたが、こうして現れた音のもつ異様な美しさを信じないわけにはゆかなかった。

 

 

 音楽を構成するはずの持続的なメロディーが粉砕され、非連続的な音の集まりだけが残ることになる。必然性の鎖は解かれ、音の連続性であるメロディーは、新たにつくりだされていく分散した音から音への飛躍のなかにしかない。別の言葉でいうと、この断絶的な音のなかで批判的に音を紡ぎ、いつバラバラになってもおかしくない音を一つづつ取り上げては、連続性を確保するはじめての近代的な音楽家ショパンだということになる。