白銀の図書館 8 演奏と批評〜遠山一行について Ⅳ

 

現代と音楽 (1972年)

現代と音楽 (1972年)

  • 作者:遠山 一行
  • 発売日: 1972/06/12
  • メディア: 単行本
 

 第三の驚きは、あるいは、私にとって最も大きいものだったかもしれない、というのも、そこではまさしく私が西欧音楽を聞くきっかけになったグレン・グールドミケランジェリといったピアニストたちが徹底的に批判されているからである。遠山一行は(「ベネデッティ=ミケランジェリ」『現代と音楽』所収)ミケランジェリを演奏会で聞いたとき、かつてない衝撃を受ける。フルトヴェングラーコルトー、カザルスの演奏会を聞いたときにも、深い衝撃を受けたが、それは同時に、自分のなかにある音楽という言葉が深められ、豊かにされることを伴っていたが、ミケランジェリの場合にはそれら全てが奪い去られるのを感じる(ちなみに、グレン・グールドの場合、ミケランジェリの論理的帰結であり、全く同じことが言える)。吉田秀和はそれを「多彩な音色」と形容したが、遠山はそれを「すぐれた文章」として読んだが、「そこで行われている具体的な判断、分析を、ほとんど納得することができなかった。」むしろその完璧な造形力によって、根本的に音色は封じ込められていて、ピアノとは似て非なる音を出す何ものかに変じている。それはいわゆるピアにスティックな響きを欠いた物としての音=造形である。演奏家が楽譜という形で残された他者の声を、これもまた他者である聴衆に伝えるものだとすれば(演奏家が批評家に例えられているのは明らかであり、遠山一行の批評を通じた主要な論点のひとつである)、自分の規矩を完全な形で実現することを目指すミケランジェリのような演奏家には、そうした実現を保証する抜群のテクニックだけが必要となる。

 

 それをさらに一歩進めたのがグールドである。あるいはより顕在化したといったほうがいいだろうか。聴衆を必要とせず、記録媒体だけで完結するグールドの世界には他者が存在しない。そこにあるのは究極のナルシシズムであり、本来他者を媒介するべきときに、自身だけのナルシシズムの王国を打ち立てている。そして、「彼等の立っている場が、古典音楽の成立する人間的、社会的空間とは極めて異質なものであることは否定できないだろう。そういう空間への予感や願望なしにモーツァルトをきくというのは、どういうことなのだろうか。」(「グレン・グールド」『現代と音楽』所収)という問いかけは、もっぱらCDを聴いている私に対しても切っ先を向けることになる。

 

 そして彼らすぐれて「現代的な」演奏家は、本来は美術の領域で用いられる「煩瑣な、人工的な、わざとらしい、という風な意味合いでつかわれるが、要するに芸術が自然な表現からはなれ、知的・人工的な工夫が過度に凝らされていることをいう」(『古典と幻想』)マニエリスティックという形容まで用いられる。レコードがCDになり、ダウンロードされるデータになったこと、芸術が際限なく複製されることによってアウラを失ってしまったというベンヤミン的な分析は実はここでは最も重要な論点ではない。というのも、どれほど複製の技術が多様になったからといって、音楽と我々の関係をどう選択するかは我々自身に委ねられているからである。

 

若い頃には若い頃の音楽があり、歳を取ればまたそれらしい音楽があるのは当たり前のことだといわれるかもしれないが、果たしてそういえるのだろうか。人間は誰でもそれなりに成熟するが、芸術がそれを本当に反映し表現するような状況が、たとえば私共の時代に果たしてあるだろうか。ベネデッティ=ミケランジェリの演奏が六十歳の音楽であり、カラヤンベートーヴェンが七十歳の音楽であるといえるだろうか。芸術が方法のデモンストレーションになり、音はその影になってしまった時代に、音楽は正しく成熟することをゆるされなくなっているのではないだろうか。(『音楽とともに』)

 

 

 マニエリスムとは単にひとつの様式なのではなく、生のありかた、実存的な姿勢であることが明らかになり、確実に音楽との関わり方を変えるべく迫ってくることにおいて、保守的でも革新的でもない批評の姿が浮かび上がる。