白銀の図書館 16 プラトン的荒野〜河上徹太郎について Ⅷ

 

 

 

日本のアウトサイダー(新潮文庫)

日本のアウトサイダー(新潮文庫)

 

 ここに至って、河上徹太郎にとって市村羽左衛門という存在がもつ意味合いが見えてくる。羽左衛門は、谷崎潤一郎が「芸談」のなかで語っていたような、虐待同様の訓練を受けた末に芸を身につけ開化させる旧来の名優タイプではなく(彼らは「自然人」だと言えよう)、行為者であるとともに偉大なる認識者でもあるような新たなタイプの俳優である。その点で、羽左衛門の華やいだ存在感を称揚した折口信夫正宗白鳥河上徹太郎は一線を画している。そして、若い頃には「棒鱈役者」と呼ばれ、第一人者となってもそれほどレパートリーが多くなかった「不器用さ」にこそ羽左衛門の強みを見いだしているところに、「羽左衛門の詩と変貌についての対話」の白眉があろう。結末近くのフエドロスとソクラテスの言葉である。

 

エドロス さうだ、余り眼が明確に見え過ぎることが画家にとつて時に却つて妨害となる如く、余り四肢の運動筋を支配出来過ぎることは、俳優を錯乱させるだけでなく、彼の現在の行為を過去に押しやり、希望を習慣に変じ、表現を解析に封じ込める。不器用の必要はここにある。それは俳優と役との間を不断に隔離し、俳優の意向を常に同一角度に向け、彼の生の悦びを保証するものである。プロタゴラス君、羽左衛門の不器用を飲み給へ。然しこれが豊醇に見えるのは、これの功績の結果、彼の全存在の徳がこれに帰してゐるのであつて、決して不器用に伴ふ必然的な作用ではない。印刷のずれが時に両面を傷つけないでその立体性を示す効果がある如く、彼の不器用は常に彼自身と或る間隔を保ちつつ却つてその存在を確保する。

ソクラテス すべての衝動がすべての肉体に騎乗して遂にその窮極に達し、不器用さに臨んで夕映の空の如く歌を歌ふに至るとき、不器用さは彼自身より出でて如何なる小想念を以てもその全体を置換し得べき状態に達する。その時彼はもはや羽左衛門の不器用ではなく、与三郎の不器用となる。人が性格と呼ぶものはこれである。不器用は聖者の如く呟く。然し彼は自分が円いか四角か知らない。人が彼を無視し修飾することは容易だ。然し彼は雲の如く生まれた時を知らず死を恐れない。人が彼をその名で呼ぶとき彼は常に自分は外の名だと思つてゐる。

 

 「聖者の如く呟く」「不器用さ」が河上徹太郎の作品の一貫したテーマだったと言える。忠臣蔵六段目は、まさしく各人の不器用さが角突き合わせて身動きできないような緊迫感をもたらす場面だった。

 

 ヴェルレーヌから始まり、『日本のアウトサイダー』で取り上げられた様々な人物、萩原朔太郎中原中也、岩野泡鳴、河上肇岡倉天心大杉栄内村鑑三など、河上徹太郎の取り上げる人物は「全存在の徳」をもって自らの「不器用さ」に対峙した者たちの列伝となっている。そして、その最大の例証が河上が唯一モノグラフをあらわした吉田松陰ということになろう。