白銀の図書館 17 プラトン的荒野〜河上徹太郎について Ⅸ

 

 

 

 

 

河上徹太郎私論

河上徹太郎私論

 

 

 歌舞伎には伝承された「型」があり、凡庸な役者は師匠に教えられた「型」を教えられた通りに身体に覚え込ませることで満足する。彼に見えているのは運動の「型」だけである。ところが、羽左衛門が認識するのはある人間の全存在がかかった「型」であり、演じるとは自らの全存在をそこに注ぎこむことである。

 

 それゆえ、大いなる認識者であるといっても、ブレヒトの俳優とは異なっている。ブレヒトの俳優はいまここで行われていることが舞台の上の出来事であることを観客に隠そうとはしない。役に対する解釈を示し、観客に作者や俳優とともに考えるように誘いかける。ところが、全存在を投入し、与三郎と渾然一体となった羽左衛門には、解釈を許すような役との解離は存在しない。観客は「これと共に流れることだけが許されてゐる」。その意味で、「羽左衛門の死と変貌についての対話」の最後、ソクラテスの言葉に見られるように、羽左衛門の「芸には後継者がない」。それもそのはずで、人の全存在など継承されるはずがないからである。もし継承されるものがあるとすれば、それは役に対して全存在を投入するという姿勢だけであって、その結果あらわれる「型」はそれぞれ異なったものとなるに違いない。河上徹太郎が取り出してみせた「可能性としての羽左衛門」について語られているわけである。

 

 「自然人と純粋人」からの引用でも明らかなように、「型」は舞台の上に限られるわけではない。ただ舞台が、特に能、狂言、歌舞伎といった伝統芸能が同じ演目を繰りかえし演じることによって、典型的な人物を「型」として洗練させていった結果、「型」が現実の世界より見やすくなっているに過ぎない。

 

 実際には、舞台の外でも、火消しに走る消防夫にも「型」はある。しかし、なにが「型」を産みだすのだろうか。消防夫の例が引かれていることが象徴的に思える。消防夫は江戸町火消しからの連想を伴っている。彼らは独特の生活習慣をもち、威勢のよさ、心意気、潔さなどを理想として奉じていた。火消しであることは、単に消火活動に従事することではなく、いわば全存在をある価値観に投じることだった。そう考えると、舞台の外にもあるとはいえ、「型」がどんどん消滅していることは明らかである。投機家や事業家は「型」にはまらないよう工夫することで事業を拡大する。つまり、共通の価値観の裏を掻こうとする。伝統的に続いてきた小社会、伝統芸能、宗教家、やくざなどにおいても、もはや共通の価値観に奉じるなどということは少なくなってきているように思える。

 

 この意味でも、ある種の理想型として「型」を論じた河上徹太郎が、「不器用な」人物に対する愛着とも相俟って、吉田松陰にたどり着いたのは必然性のあることだった。というのも、「武と儒による人間像」という副題にある通り、松陰が『葉隠』や山鹿素行に発する士道と、儒教とが交叉する地点に立てたほぼ最後の世代にあたる人物だったからだ。確かに明治期のなってからの内村鑑三河上肇などにも儒教的教養や武士的ピューリタニズムが認められる。しかし、既に儒教的教養は反時代的であり、武士的ピューリタニズムは、危急の際の死を常に意識しながら生活することを理念としてはもちながらも、なにかことが起きればそうした危急の事態を招かずにはいないかつての君臣関係(赤穂浪士に典型的に見られるような)が既にないために題目だけになりがちだった。吉田松陰儒教と士道がいまだ生き生きとした意味をもち、「型」を提示していた時代の一典型であった。羽左衛門が「可能性としての羽左衛門」であったと同様、ここでの松陰が「可能性としての松陰」であることは、序にある

 

本書の題目は傍題の方の「武と儒による人間像」といふ一般論である。しかしそれでは漠然とし、抽象的であるから「吉田松陰」の名を借りて見出しにした。丁度ヴァレリーが『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法論序説』を書いた故智に倣つたものである。

 

という文を読めば明らかである。

 

 最後に、私が好きな河上徹太郎に対する評言を二つ紹介したい。河上徹太郎は長年の間、小田急線沿線である柿生に住んでいた。私もまた小田急線沿線に住んでいたので、少なくとも私が子供、学生の頃は、親しみのある地名ではあったが、毎朝のように通り過ぎていたにもかかわらず、駅に降りたことは3、4回しかなかった。降りたところで、四方が緑の山に囲まれていて、地元の人間でない限り、何もすることがなかった。ぼんやりいつの頃からか、その駅に河上哲太郎の自宅があることは知っていたが、商店街もなにもないので(少なくとも数十年前は)どちらの方に河上亭があるのか推察するまでもなく、どこに住宅地があるかさえさっぱりわからなかった。なるほど、こうした地域でなければ、愛犬を引き連れた猟もできなかっただろう。もっとも、ろくでもない宅地造成が始まってから、すぐに免許を返上したというから、私が朝夕車窓から眺めていたときにはすでに猟からは離れていたかもしれない。ピアノ、ゴルフ、狩猟と河上徹太郎はやることが多かった。

 

 遠山一行は小林秀雄が言ったという、「批評家とは河上のことをいうのだ、それにくらべれば自分は精々詩人だ」という言葉をひき、河上さんは生きることを批評にしたということになる。」と言っている。一般的に、創作があってそれから批評が生じると考えられることが多いが、人間も含めたすべての動物は環境を批評し、適応していることにおいて、生きることはそのまま批評なのである。

 

 音楽が、というよりもピアノを弾く経験が自分を批評に導いたと河上さんはいっているが、それはおそらくゴルフにしても狩猟にしても同じことだった。小林さんも晩年までゴルフを楽しんだが、それは健康のためというはっきりとした目的をもっていて、批評という無性の行為と結びつくことはなかった。

 河上さんのゴルフははるかに本格的なもので、私もその端正な姿に感心したが、それはゴルフが河上さんの生き方だという事実に結びついていた。だから河上さんはゴルフが風俗となった戦後に、それをはなれたのである。晩年の狩猟は、そうした河上さんの批評をうけとめることのできるほとんど唯一の世界だったかもしれない。鉄砲を撃つという行為の肉感性と犬とが、河上さんのなかから消えることのない「純粋」の理念を支えたのである。(『河上徹太郎私論』)

 

 

 もうひとつの評言は、『著作集』の月報にある中村光夫の「批評家の誕生」という短い文章である。日本の文学者といえば、貧困がつきものであるなかで、食べるに困らない財産を親から譲られ、しかも一人っ子で子供もいなかったので、それを使い果たしてもいい立場にあった河上徹太郎の日本文学における特異性を述べた後で、こう書いている。

 

 氏はおそらく生涯を通じて、金儲けのために指一本動かさなかつたやうに、世のため人のためには何ひとつ計らなかつたので、唯一の例外は戦争中の文学報国会を通じての氏の活動です。

 しかしこの時代にも氏は国家や社会のためを図るより、自己の文化的理想現実の機会を戦時の動きと混乱のなかに見出さうとつとめただけなので、その楽天的空想は、敗戦をまたずに破綻してしまつたのです。

 

 

 食べるには困らない財産が残されていたというのは私とだいぶ事情が異なるが、世のため人のためには何ひとつ計らなかったというのは読み直すたびにお洒落なものを感じて、そこに敗戦後のイデアも理念も型もない有象無象が増殖していったことを思えば、広がっているのは荒野であり、ヨーロッパの象徴主義から出発した河上徹太郎が荒野のイデアを求めたのか、それらを「毛髪、泥、汚物その他およそ値うちのないつまらぬもの」として捨てて顧みなかったどうかは疑問として残り続ける。