ケネス・バーク『歴史への姿勢』 1

第一部 受容と拒絶

 

第一章 ウィリアム・ジェイムズホイットマン、エマーソン

 

 「宇宙を受け入れる」か「それを拒むか」。ウィリアム・ジェイムズはそう並べ、それが「自発的に行われる二者選択」であり、「ある種の悪に陥ったときに精神は両者の間を揺れ動く」のだとした。そして、「第一の選択に失敗するまでは第二の選択に赴くことはなく、第二の選択が不誠実な応急策であるか、第一の選択が余分な虚栄心であるかに思われる」と述べる。特徴的なのは、ジェイムズが双方を避ける道を探していることである。彼はオプティミストでもペシミストでもなく「改善論者」である。「解決はどちらも絶対に受け入れないことにおいてのみあり得る。」断念がなければならないのだとしても、それは「暫定的」であるだろう。「新たな博愛的行動を進めるための土壌と余暇」が必要となろう。そして、彼は行動の価値を「結果よりもむしろ・・・向上させようとする試み」のうちに位置づけるだろう。この考察は1869年、ジェイムズのプラグマティズム哲学が形をとるずっと以前に書かれた。だが、その最終的な形に近いものはこの初期の道徳的な但し書きにあっても常に心にあったに違いない。ジェイムズの図式では、行動と結果は決して純粋に功利的なものではない。より少ない悪を選択することが最終的な機会だと見得るなら、より少ない悪を選択することも一つの行為である。

 

 「受容」と「拒絶」(ショーペンハウアーBejahung und Verneinung)は、かくして悪の問題から出発する。不安、不正義、病気、死に面して、人はある方針をとる。宇宙や歴史についての考えを打ち立て、それに合った態度をとる。詩人や科学者として、「人間の状況」を彼の想像力が許すだけ十分に意味づける。そしてこの十分な意味づけをもって、友好的かあるいは非友好的な働きや関係を選ぶのである。もし状況が友好的だと思われるなら、彼はそれを迎え入れる準備をする。もし非友好的だと考えられるなら、その客観的抵抗を操作し、それと戦っていくことで最終的にどこまでたどり着けるかを決める。

 

 あらゆる種類の「行動」がある。そして複雑な世界では様々な種類の行動がある。行動はプログラムを必要とする――プログラムは用語を必要とする。具体的な場において、賢明にふるまうには多くの言葉を使わなければならない。間違った言葉を使うと、言葉がその場を不適切に切り分け、間違った指示に従うことになる。我々は友好的、あるいは非友好的な働きや関係を見極めなければならず、それによってなんらかの対処をすることができる。それらにある名をつけることで、我々は自分の性格を形成するが、というのも名前は姿勢を具体化したものであるから。そして、姿勢のうちには言外に行動への指示が含まれている。例えば、あなたが教会での救いを望んでその一員になり、それが堕落した教会であり、社会的な問題においては巨大な富をもつ者の側に立つとすると、あなたは富者に協力する者として性格づけられる。あなたは個人的には決してそうした人としてふさわしくないような「振る舞い」を求められたわけではない。しかし、一世代後には、あなたが子供たちに残した汚名と姿勢に基づいた行動がなされるかもしれない。

 

 従って、行為とは自分の姿勢を変えようとするものであるか他者の姿勢を変えようとするものである。哲学者、詩人、科学者は、彼らが現実を単純化し、解釈する言葉に従って行為する。そうした名が我々の仲間との関係を形づくる。それはある働きには賛成、他の働きには反対するが、人々はそうした働きに対する賛成反対をあらわしているのである。名づけはさらに先へと進む。それはいかに賛成あるいは反対したらいいかを示唆する。ある人間を悪党と呼ぶなら、あなたは攻撃するか縮みあがるか選ぶことになる。間違った呼び方をしたなら、正しく名づけるよう努めることとなる。いらだたしい現在にいる我々は喜劇的な「策略」や「聡明さ」よりも、悲劇的(ときにはメロドラマ的な)な「悪党」や「英雄」といった名のほうを好んでいる。選択は我々が手に入れる結果にも、そこに含まれる抵抗とも関わりをもつに違いない。「受容の枠組」で我々が意味しているのは、考える人間が歴史的状況を評価し、それに関わるある役割を演じようとするときにとる多かれ少なかれ組織化された意味の体系である。

 

 多分、アメリカ文学のなかで受容の枠組を考えるときに、最も才能の豊かな、あるいは少なくとも最も個性に富んだ三人は、ウイリアム・ジェイムズ、ホイットマン、エマーソンだろう。三人とも神秘的で、超越論的、彼岸への憧れをもっている。ジェイムズはマニ教的な異端を好んでいた。彼の「多元論」では、良き神が宇宙の支配をめぐっていまだに戦っている。「自由意志」が許されていて、個人はこの戦いに参加するかどうか慎重に決めることができる。どれほど宗教的な慰めでしかない信念も、科学的な証拠によってその間違いが証明されるまでは合法である。哲学的な三位一体として彼は「合理性、活動、信念」をあげる。信念は活動力を活気づける。合理性は行動のための方法を与える。合理性は手に入る証拠のすべてについて考えることを厭わないから、行動についてその完全性と一貫性が検証される。彼の根本的な主張はすべて、自分や他人に生きるために役立つものを与えようとしている。彼はいかなる信念(進歩を伴った進化、神、祈りの効能)でも認める宇宙を「受け入れている」ので、よりよいものに向かっているという感覚をもつことができる。弟のヘンリーに宛てた初期の手紙で、彼はスゥインバーンの「事物の本性と妥協する」という表現を高く評価し、マシュー・アーノルドの作品に「空気」の存在を認めている。この二つの細部はジェイムズを完璧に特徴づけている。それらは彼の修正主義の中枢にあるものである。そして、彼が行動のための装備として強く必要としているのは最上の概念ではなくよりよい概念であり、常に絶対主義を退け、形式好きの同僚たちを憤慨させるような不格好な「多元論」のほうを好んだのである。