ケネス・バーク『歴史への姿勢』 3

 

根本的経験論 (イデー選書)

根本的経験論 (イデー選書)

 

 父親の熱意は、独立した考えをもたせるために教えるというものだった。「彼が属し、その主導者でもあった学派は彼だけで成り立っていると言える」とペリー教授は書いている。彼の極端な態度は、あらゆる権威との間に戦いを引き起こすことになった。家族の友人の回想にも反感が読み取れる。「息子たちがその両親に対して、滑稽な文句を投げかけるのは特別なことではない、その一つは『父さんのマッシュポテトはいつも沢山じゃないか』というものだった。」このような性質をもった「父親への反抗」は、がむしゃらな対立でもって歪められることなく(サミュエル・バトラーがそうであったように)、情のこもったものであり得た。父親の影響、それによってジェームズは自然に「宗教的であるには生物学的でありすぎ、生物学であるには宗教的でありすぎる」本を書くことになるが、それはペリー教授の発言によく示されている。「若いときからいかなる意味でも軽信することはなかったので、年をとり、老人になってもなにも後悔することはなかった。知的な禁欲への反動を引き起こすようなものもなにもなかった。」その結果、喜んで「科学的な地下世界の脇道へ逸れる」ことになった。というのも、

 

 「彼は正統であるより異端である方が喜ばれ寛大に扱われるような環境で育った。フーリエ主義、コミュニズムホメオパシー、女性の権利、奴隷制度廃止、スピリチュアリズムに惹きつけられていた彼の父親や父親の友人のような人間は、霊媒千里眼、メスメリズム、自動書記、水晶による透視などになんの偏見ももっていなかった。若いときからジェームズはそうした『現象』のことをなんの嫌悪感も抱かず、広い心で考えていたのだった。」

 

彼は前もってはっきりと誰が「狂っている」のか「知らされる」ような状況で成長しなかった。なんの気取りもなく、彼は「どちらの方からくる光でも迎え入れた」。

 

 ジェームズの理解力を鋭敏なものにするのにパースが果たした役割を描いた個所はまことに痛烈である。ペリー教授の診断によると、「恐らく、プラグマティズムとして知られる現代の運動は、主にジェームズのパースに対する誤解の結果生まれたのだと言えば正しいし、彼らすべてに公正だろう。」真理の公的な性質を強調し、パースはジェームズに手紙を書いている。「私は人々に語っている--話す相手がいないので想像上の対話者なのだが」、そして、「ぜひ来て瀧を見て欲しい、平和な気分になる」と。

 

 パースはジェームズにとってうるさい存在であり、ジェームズが言葉の響きへの好みにふけっていることを困難にした。彼はジェームズのゆるやかな言葉の使い方を非難し、苦痛でしかない厳正さに押し込めようとさえした。

 

 「科学にとって必要不可欠なのは、明確で技術的な用語をもつことで、それはいいかげんな思想家たちがあえて使おうとしないような人目をひかないものです。新たな概念が導入されたときには新たな言葉をつくる明確で適切な方法があります。科学の活力であり、新たな概念を導入した者の義務であるのは、それを表現するのに十分に愛想の悪い語をつくりだすことです。あなたには用語がもつ道徳的な側面を真面目に考えてもらいたいのです。」

 

ジェームズがカント的な「私は考える」は呼吸の経験に還元することができると書いたとき、このうるさ型は次のように応答した。

 

 「多くの人間は、私もそのうちの一人ですが、考えているときには特に意志することなく呼吸していることに注意してもらいたいと思います。・・・もし私が肺で考えていることを信じなければならないなら、こう言うことになるでよう、Ich denke 私は息をしていない、と。」

 

 

 

 我々の知る彼らの対照的な運命の光のもとに彼らのやり取りを読んでいると、我々はパースの方法がより厳密であることを感じるが、その筋肉は彼の支配を越えてしまっているのがわかる。彼は息を殺しているが、他の者はもっとたやすく呼吸できる。もしジェームズがパースにされたように容赦なく窮地に追い込まれるようなことがなかったなら(最終的に、分裂が明らかになる。「私が考える『すばらしい』文体とはイロニーと真面目さとが混じり合ったものです--同じものについてイロニカルにかつ真面目に言うことなのです」)、自分独自の用語を自由に駆使していたことは間違いないだろう。