ケネス・バーク『歴史への姿勢』 5
ホイットマンは、ジェイムズの詩による複製ではないだろうか。「開けた道の歌」は「感得の深い教え」について説いている。「世界への挨拶」で「地球のすべての住人」を歓迎している。彼はブレイクの普遍的愛と同じくらい無差別であろう。物事が表面上悪く思えるときは、「目に見えない存在」を探ろうとする(「粗雑な外面と目に見えない魂とは一つのものだ」)。ジェイムズの多元論に対応するように、彼は自分自身を「分解している」と感じ、忘我状態で言う、「私は自身をあらゆる人間のなかに撒き散らすだろう」と。ジェイムズのように、彼は多様性の背後に組織化され統一された目的を見る手段として多元論に頼っている。
あらゆる存在はそれ自身の言葉をもち、あらゆるものはそれ自身の言葉と舌をもっている、
彼はあらゆる舌を自分のものに変形し、それを人々に贈る、だれでもそれを翻訳し、だれでも自分の言葉を翻訳できる、
ある部分が別の部分を邪魔したりはしない、共に加わり、どうやって加わるのかを見るのである。
嫌悪すべきものなど存在するだろうか。彼は自らをすべてを包みこむ胃、なんでも呑み込む食欲として作り上げたのだろう。(受容の限界は自ずからある。もしすべての人間が彼のやり方をとり、彼の受容の枠組で中世の教会のような広大な集合的詩を作り上げたなら、誰かが最後にはこう言うことが想像できる。「なんでも消化できるって言うんだね。いいだろう、ここにおが屑と釘がある。これを腹に入れてみたまえ」と。)
「巨大な空間」を呑み込むことで、彼は四つの地平を所有した。彼は幸運を必要としないだろう。「私自身が幸運である。」急いで歩いても思慮深さが損われるばかりだが(なぜそう急ぐんだい、みんな招待に遅れそうなのか)、彼は自分のなかに「過去、未来、荘厳さ、愛」を感じている。挑戦的に、「地球は満ち足りている。」だが彼は「古くからの香しい荷」を運んでいる。彼は「悪党、病者、無教養な人間」を否定することができない。「もし君が職を失ったり、犯罪者となったり、病気になったりしたら、私がお役に立とう」と約束する。「さあ行け」という高揚のなか、彼は「公然たる反抗、快活さ、自己尊重、好奇心」を称揚し、仲間が「最上の血、筋肉、忍耐力・・・勇気に健康」をもつよう告げる。要するに、「人間によって受け入れられること」と「人間によって拒絶されること」その双方を考えたとき、彼は次のような決断によって問題を解決する。
私は彼らがどこに行こうとしているのか知らない
しかし、最上に向かって、なにか偉大なものを目指していることは知っている
「最上に向かって」の向かってという前置詞は、ジェイムズの「改良論」が形容詞の比較級に託したのと同じような役割を果たしている。悪と善とのからみ合いがあるとき、彼は総合していく姿勢によって矛盾を乗り越え、よい要素をそのなかでの本質ととるのである。
ジェイムズが価値を改善していく試みにおいたように、ホイットマンは、手品のようにアクセントを変えることで、意気阻喪するかのような見通しを約束された未来があるかのようにひっくり返す。
「本質的なのは、成功の達成には大きな戦いが必要だということである。」
明るい見通しのなかでこうした発言を密かに紛れ込ませることができるのは、彼が「我々に襲いかかり」、「魂の発散」でもあり、同時に正反対の方向にも向かう偉大なる幸福について語っているからである。このきらびやかなトリックは「漂流」でも繰り返されており、そこでは海がささやきかける「低くかぐわしい死の言葉」、「でたらめに幾千となく反響し合う海の歌」がいかに「このときを活気づける」かについて喜びをもって語られている。ラプソディー的なスタイルが不穏な思索(彼の詩は死のヴィジョンによって動機づけられている)に変わり、それが喜ばしいものとなる。「ブルックリン渡橋」では彼は楽しげに柵を乗り越え、彼を好きな人々が彼の死後読んでくれるように、遺書を読み上げる。そして、彼らが読んでいるところを私は見ることができるだろう、とほのめかす。
こうした考え方は彼の論理に必要なものである。彼は超越的な橋を架けることでのみ「現実の確かさ、物事の不滅、物事のすばらしさ」を肯定することができる。公道で、彼は「心地よい空気」を楽しむ。「海のなかの世界」では、大洋の「深く厚い空気」のなかに潜む生を想像している。対照によって彼はあるパターンをつくりだす。「深く厚い空気」での生に対して地上の「心地よい空気」での生があり、心地よい空気での生は「別の惑星を歩く存在」のものである。*「まさかりの歌」で描かれる出来事に注目することで締めくくろう。「その武器は姿がよく、剥き出しで、鉛色をしている」、「その頭は母の胎内から引き出された。」この斧は多くのものを生みだした。驚くべきはその結末で、息子は家に戻り母親に迎え入れられ、そこで、
主要な形が生まれた
幾世紀にわたる結実として民主主義の形が
形を映しだす形が
騒然とした雄々しい都市の形が
全地球の友人と家を分け与える者たちの形が
地球を元気づけ地球に元気づけられる形が。
ホイットマンには、不死性、友愛、労働、私、民主主義、「答えること」、心地よい風、死のなかの生、他の枢要な詩においては連邦(彼に親和的な分解を共同で再統合する象徴)、リンカーン(連邦に個人として対応する「元首」)が一塊で見いだされる。その全体がホイットマンの「受容の枠組」である。
*1:
*このパターンはある種の魚に「装備」された目の形に「理想」を見いだすかもしれない。中央アメリカと、南アメリカの北方に生息するヨツメウオ族である。「これらの魚の目は水平に分かれていて、上の部分は水面の上を見ることができ、下の部分は水中を見ることができる。」
ニューヨークの水族館でこの魚を見ると、私がかつて書いた小説『よりよい生に向かって』の一節を思いだす。「私は湖のなかにゆっくりと歩を進め、目が水に届き、水面が眼球を分断したときのことを思いだせる。」ホイットマンに照らして考えると、この一節は浮上ではなく沈降を象徴していることがわかる。ホイットマンのパターンの逆だったのである。
浮上よりも沈降を強調する有名な例は、マシュー・アーノルドの「見捨てられた人魚」で次のように主題が詠われる。
沈め、沈め、沈め!
海の深みへ沈め!
マルコルム・カウリーの詩「レアンドロス」では、波が泳ぎ手にあきらめ溺れることを勧める。
こうした浮上や沈降の象徴が再生の儀式に役立つことを後に論じることになろう。それは魔術的な呪文であり、詩人は新たな状況に仲間として加入するために自分のある部分を殺し、その結果自己を変革する。